「模試で学校1位を取った高校生の国語勉強法」を読んで

どんなジャンルであれ、よく出来る人・うまい人のやり方を研究するのはいいことですね。彼・彼女らの方法論から何か得るものがあるはず。

先ほど見かけた記事に、現代文を得意とする高校生の方法論が紹介されていました。模試で学校1位を取った高校生の国語勉強法とあって、優れた考え方なのでご紹介。

模試で学校1位を取った国語の勉強法 デキる高校生は読書も学習に活かす|高校生新聞オンライン|高校生活と進路選択を応援するお役立ちメディア

国語は答えがある教科なので、模試対策としては自分なりの解釈をするのではなく、一般的な解釈を知ることが有効です。ネット上に多く上がっている、人々のその作品への解釈を読むと成績は大きく向上すると思います。(上記高校生新聞オンライン記事より引用)

いいですね。現代文の問題は「あなたの考え」を聞いているのはありません。「筆者の考え」、もっと正確に言えば、「標準的な読者が読み取るであろう『筆者の考え』」が聞かれています。現代文を苦手とする人は、そこを意識するだけでもかなり違ってくるのではないかと思います。

以前このブログでもそんなことを書いたはずと思って調べたら、やっぱりありました。言いたいことは全く同じです。

現代国語の正解とは?小川洋子氏に小説問題を学ぶ

そうなんですよね、入試国語では「筆者の考え」そのものが聞かれているのではありません。それはその筆者自身にしか分かり得ないわけですから。

聞かれているのは、「標準的な読者が読み取るであろう『筆者の考え』」、さらに言えば、「知的階層に属する者が読み取ると考えられる『筆者の考え』」です。もっと有り体に言えば、「出題者の考える『筆者の考え』」ですね。

頭の良すぎる人は、その頭の良さ故に、そこを勘違いしてしまうことがあります。「入試問題」はあくまでも「入試問題」なのであって、文学研究ではありません。真の「筆者の考え」が問われているのではないと理解して、合理的に勉強を進めて欲しいと思います。

次は記述問題に関する心構え。

試験への心構えは、記述式の試験とマーク式の試験で異なります。記述式では完璧な回答を目指すのではなく、どれだけ要領よくポイントをおさえるかが大事です。一方マーク式では、答えが必ず決まっているため、即断力と全て埋めることが大事になります。(上記高校生新聞オンライン記事より引用)

そうですね。記述答案は完璧なものでなくともかまいません。限られた試験時間の中で完全な解答を作成するのが困難である以上、「ポイント」をしっかり押さえた答案を目指すべきです。もちろん完全な答案が作成できれば素晴らしいですが、現実的ではないでしょう。要領よくポイントが押さえられていれば、答案は少しぐらい粗削りでも構いません。

こちらの話も以前このブログで書いたはず。下記の記事ですね。言いたいことは全く同じ。

国語記述問題に下書きは必要なし

国語記述問題の場合、解答の各要素に配点がなされているはずですから、答案にはその要素要素を落とさないように書く、それに尽きます。そうした要素を集める際も、本文中への線引き、または、単語レベルのメモ書きで十分です。あとは、頭の中で大まかなラインを作って、いきなり答案を書くべきです。

あと、川北先生のブログ記事からも分かるように、文章の巧拙は、国語であってもほとんど点数と関係がありません。そりゃ、文章が上手いに越したことはありませんが、国語記述問題のポイントは、あくまでも「解答の要素がきちんと入っているか」ということです。しつこいようですが、これはいくら力説してもいいところでしょう。

科目特性を捉えて勉強することはとても大切。成績の良い友人や先輩を見つけたら、遠慮なく良いところをマネしてくださいね。勉強法に著作権はございませんので。

吃音症の小学生を歓迎します

このブログ、今までの記事が1800弱あるんですが、特に何か特定のことをテーマとするわけでもなく、あれこれと書いてきました。

いくら「当塾を知っていただくための対外的なブログ」といっても、それだけ書いてみると、ある程度は、当塾の何がしか・代表である私の何がしかかが表れているだろうと思います。

で、振り返ってみてこのブログ、何がテーマになっているんだろうかとつらつら考えてみるに、やっぱり「言葉」がテーマなのではないかと。

個人的に何に一番興味があるかといわれたら、やっぱりこの世に「言葉」ほど面白いものはないんじゃないかと思うんです。当たり前でいながら、深遠で。美しくありながら、どこまでも醜悪にもなれて。この上もなく役立つものでありながら、身を滅ぼしかねないものでもあって。


自分で言うのも変ですが、私はちょっと異常なほど言語的な発育が早く、そのせいか幼い頃は重度の吃音に悩まされてきました(今では口から先に生まれたのかと言われるほどになってしまっていますが)。

大人の私は自分なりに医学的な論文を読んで、その頃の発育状況・言語状況を説明できますが、小学生の私にそんなことは分かりません。小学生の授業を初めとする公的な場で「発言」というものが全くできませんでした。いわゆる「難発性吃音」という症状で、全ての言葉は喉のところで止まってしまう。

心の中では凄まじいスピードで言葉が流れているのに、それを外に出すことが出来ないもどかしさ、切なさ。優しい同級生も多かったけれど、冷たい言葉を平気で投げつけてくる同級生もいます(小学生とはそういうものですが)。先生も同じで、配慮のある先生もいれば、差別的なことを平気でいう教師もいます。

私は一生、対外的に言葉を発する事ができない者・言語に障害を持つ者として生きてゆくのだと思い、この世から「言葉」というものが消え去れば良いのにと毎日心から願ってもいました。

そうした生活の中で、「言葉」に対する思いが先鋭化し切なるものへと昇華していった、というと格好をつけすぎかもしれませんが、それは私の偽らざる思いです。

何の因果か、生徒さんの前で話し、国語や言葉を指導するという仕事をしていますが、誰よりも自分自身が信じられない気持ちなんですよね……。タイムマシンで小学生頃の自分に会って今の暮らしを話しても、絶対に信じてもらえない自信があります(笑)。


Deus erat verbum. という言葉があります(ヨハネによる福音書)。ラテン語では、「A is B」「B is A」は文法的に区別がないので、そのいずれであるかを文脈的に読み取らねばならないんですが、ギリシア語の流れから考えて、この文は「言葉は神であった」と訳さねばならないらしい。「神は言葉であった」ではないわけです。

私はキリスト教信者ではありませんが、この言葉に胸を射ぬかれます。言葉は神。言葉こそが神。

今の私は、ある意味「神」に仕える神職者かもしれません。

追記 : 吃音症の小学生を歓迎します

吃音については、以前から詳しい記事にしたいと強く思いつつなかなか書けていません。吃音症の治療法は確立されておらず、治らない方も多数いらっしゃいます。自己と社会との接点である「言葉」に不自由を持つことは、会話・発言に困難を持たない方々には想像もつかないほどの恐怖と絶望とをもたらします。その絶望から自死を選ばれる方もいる問題である以上、いい加減な事を書くわけにもいかないと思っています。

ただ、当塾としては、吃音を持つ小学生とその保護者様にぜひ門を叩いていただきたいと考えています。特に向学心に溢れているのに、会話や発言が困難なため、学校外での学習に踏み出せない方。吃音者にとって負担ゼロの指導・授業を致します。今まで吃音の生徒さんを何度もお預かりしておりますが、重度の吃音症だった代表だからこそ分かることも多く、お力になれればとても嬉しく存じます。