最近、谷川俊太郎の詩「二十億光年の孤独」を授業で取り上げる機会がありました。谷川俊太郎の書く詩は私も好きで、いくつかの詩集を読んできました。「二十億光年の孤独」や「生きる」といった詩については、国語の教科書で取り上げられることも多いので、ご存知の方も多いと思います。
中学入試では出題も多い「詩」というジャンル。もちろん、解説を求められれば、ある程度客観的な解釈をそれらしく垂れることはできます。合格点を取るという意味では、それで事足りるのであり、逆に、それ以上に踏み込むことは御法度でしょう。しかし、それで良いのか。
「客観的な解釈」を「詩の解釈」と呼ぶのは、どうも違和感があります。想像の翼を広げて思い切り主観的に楽しむのが、詩の本道である気がしてならない。といって、そんなことをすれば合格点からは遠ざかるので、授業では「私の主観的な解釈」はおくびにも出さないんですけれど。
さて、今回の「二十億光年の孤独」を取り上げるにあたって、色々と調べているうちに面白い記事に出会いました。谷川俊太郎ご本人のインタビューです。
「この詩のメッセージは何?」とよく聞かれるけれど、伝えたいことがはっきりしていれば散文で書く方が正確です。詩の語と語の間には散文の意味的なつながりとは違う、音楽的なつながりがある。突然ぽこっと面白くつながる場合があって、そこにポエジー(詩情)が潜むんじゃないかな。だから僕は今、「美しい日本語の組み合わせを提出する」という意識が強い。音楽を聴いたときの感動に一番近いのが、詩から来る感動じゃないか、と。
http://www.sankei.com/life/news/130429/lif1304290015-n1.html から引用
但し、赤字強調はブログ筆者による
まさにその通り!言いたいことを言ってくれているじゃないですか!
そうなんです、「意味のつながり」よりも、「音のつながり」「イメージのつながり」を重んじた詩はいくらでもあるのであり、そうした詩こそ本来の意味での詩ではないかと思うんですよね。
音韻と音韻の組み合わせ、そこに重なるイメージ。それこそが言葉の美・詩の美なのであって、そこに客観的な意味を論じても、ほとんど無意味なのではないか。重さを測るために巻尺や定規を持ってきても仕方がないのと同じように。
音楽を聴いて感動することと、詩を読んで感動することは、私にとってほとんど同じようなもの。文学の源流が詩であることを考えれば、音楽と文学は、そして音楽と国語は、同じ川を流れる清らかな水のようなものなのかも。
谷川俊太郎が、音楽と詩を同一視していることは、個人的には詩人としての鋭さを表していると考えるんですが、異論があるかもしれません。
谷川俊太郎の父君は谷川徹三。京大文学部哲学科で西田幾多郎に師事した哲学者です(法政大学の総長を務め勲一等も受けた斯界の大御所)。勉学の道に不熱心だった息子のことを心配していたのか、彼の書いた詩を添削していたそうなんですが、「意味」の薄い詩、換言すれば、音の動きとイメージからのみ成立しているような詩には低い評価しか与えなかったらしい。
谷川俊太郎は、父のことをやっぱり哲学者だなと思ったそうなんですが、私も同感(笑)。言葉の意味や筋道を重んじることを棄てろと言いたいわけではありません。言葉は意味だけに尽きるものではなく、音という豊かな世界を内包しているんだと言いたいだけです。
世界各国の国語教育がどの様なものなのかは、不勉強でよく知りませんが、少なくともこの日本での国語教育は「音・音韻」に関して極めて冷淡だという気がしてなりません。かくいう私も、生徒さんの成績を上げるのが仕事の第一義ですから、授業では「音・音韻」に関する話なんてこれっぽっちもしていないんですけどね。
このブログ、音楽の話もよく取り上げているんですが、国語と音楽は深いところで繋がっているという考えに基づいています。一応ね、一応(笑)。少なくとも私の中では、音楽も文学もほとんど同じような「快」をもたらしてくれるもの。この二つとは、一生付き合いがあるだろうと感じます。