石井光太『誰が国語力を殺すのか』を読んで

少し前に読んだルポ、石井光太氏の『誰が国語力を殺すのか』について。昨年(2022年)夏頃に出た本です。

仕事上読んでおくべき書だと思い、アマゾンの買物リストに入れておいたんですが、1年近くそのままになっておりました。先般購入して読了した次第です。

石井光太氏の作品は、当ブログにて以前もちょろっと紹介しています。『こどもホスピスの奇跡: 短い人生の「最期」をつくる』というルポなんですが、素晴らしい作品でした。

死と病とを思う

今回もやはり素晴らしい出来のルポでして、地道な取材に基づく各章は「子供の国語力」に興味を持つ人々にとって、大きな示唆を与えるものとなっています。私も教えられるところが大いにありました。こういう作品って、現場から離れたところにいる大学教授や官僚が空理空論を振り回しているだけ、なんてのが多いイメージがありますが(偏見持ちすぎ?)、本作品はどの問題も現場に密着した迫力が感じられて、グイグイ引き込まれました。

ただ、『国語力を「殺す」』というタイトルの表現は、やや扇情的に過ぎないかと思わないでもありません。そうそう簡単に国語力が「殺される」とは思いませんし、そもそも「殺す」という動詞は、子供の持つ力に対して簡単に使いたくない「過激な」表現ではなかろうか。

私が思うに、この表現というかタイトル、文芸春秋社の編集者がリードしたものではないでしょうか。この本に正確なタイトルを付けるとすれば、「現代の日本の子供たちの言語的・国語的状況」とか、「現代の日本の子供たちが置かれている言語に関する危機的状況」といった感じになると思いますが、これじゃあなかなか売れそうにないですからね(笑)。やっぱり多くの人々に読まれてこそ意味のある本ですし、私も編集者なら、やっぱりやや扇情的とも思える書名にするかな。

さて、書名はさておき、帯を見ると推薦者はバッチリの人選。養老孟司氏と俵万智氏です。両氏とも、大学や高校で「年下の者に教えるという経験」を持っていらっしゃいますからね。

養老氏曰く、「子供たちの国語力をめぐる実情から、日本社会の根底に横たわる問題まで掘り起こした必読の書」。俵氏曰く、「注意報ではなく警報レベルだ。子供たちの現状に絶句した」。両氏とも、的確に本書の問題意識を伝えてくれています。

さて、内容に移りましょう。

この書籍が取り上げているのは、大きく分けて次の三点。

  1. 現代の子供たちの国語力(が危機的状況にあること)
  2. 国語力の危機的状況を招いた原因
  3. 国語力回復のために必要な取り組み

当塾がいつも見たり考えたりしているところと大きな重なりがあります。細かいところには見解の相違があるとは言え、大筋では思わず頷く話ばかりでした。序章の最後、こんな風に書かれています。

これから描くのは、日本の子供たちの知られざる内面、そして底辺からトップクラスまでの教育現場で行われている国語力再生への飽くなき挑戦だ。本書にちりばめられた大勢の人々の肉声と姿が、子供たちと日本社会の未来のための希望に満ちたヒントとなることを切に願う。

(石井光太『誰が国語力を殺すのか』から引用)

全編を通し、著者のこの言葉に偽りはありません。

私がこの書を知るに至った記事もご紹介しましょう。著者が本書に見られる問題意識を分かりやすく説明してくれています。当塾からもお薦めの記事です。

『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……石井光太が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状 | 文春オンライン

以下、引用部分はすべて上記記事によります。

長年、不登校や虐待の問題など、子供たちが抱えた生きづらさをめぐって、当事者や関係者に多くの話を聞いてきました。取材を通して感じたすべての子に共通する問題点は、「言葉の脆弱性」でした。

(中略)

以前はこうした実情を、〈うまくいっていない子〉に共通の課題だと認識していました。ところが数年前から、各地の公立学校に講演会や取材でうかがうことが増えるなかで、平均的なレベルとされる小・中学校、高校でも、現場の先生たちが子供たちの国語力に対して強い危機感をもっていることがわかりました。言葉によってものを考えたり、社会との関係をとらえる基本的な思考力が著しく弱い状態にあるという。

私たちも含めて、現在の子供たちを日常的に見ている人達の共通認識だろうと思います。

筆者が、ある小学校で4年生の国語授業を参観した際の話。新美南吉の『ごんぎつね』を利用した授業です。かなりポピュラーな作品なので粗筋は不要かもしれませんが、一応粗筋から引用しておきます。

この童話の内容は、狐のごんはいたずら好きで、兵十という男の獲ったうなぎや魚を逃してしまっていた。でも後日、ごんは兵十の家で母の葬儀が行われているのを目にして、魚が病気の母のためのものだったことを知って反省し、罪滅ぼしに毎日栗や松茸を届けるというストーリーです。

兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。

この話、当ブログ読者の方は驚かれるかもしれませんね。ただ、子供達を指導していると、こんな解釈は日常茶飯事なんです。答案を読ませてもらったり、意見を聞いたりすると、(大人からは)驚きの解釈が開陳される。

ただ、意見を述べたり答案を書いてくれるだけ、子供たちは頑張っていると私は思うんですよね。本当に国語力が「殺されて」いるならば、意見も述べず答案を書きもせず、ただただ押し黙るだけになるわけですから。あとは子供たちの頑張りをどうやって正しい方向につなげていってあげるか。それが私たち塾や大人に与えられた任務だと思っています。

ここは多くの子供たちに接してきた筆者、大きなヒントを与えてくれています。

これは一例に過ぎませんが、もう誤読以前の問題なわけで、お葬式はなんのためにやるものなのか、母を亡くして兵十はどれほどの悲しみを抱えているかといった、社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている。

単なる文章の読み間違えは、国語の練習問題と同じで、訂正すれば正しく読めます。でも、人の心情へのごく基本的な理解が欠如していると、本来間違えようのない箇所で珍解釈が出てきてしまうし、物語のテーマ性や情感をまったく把握できないんですね。

そうなんですよね。国語力・読解力以前の問題が極めて大きい。言い換えれば、当該年齢として期待される、勉強以前の社会常識や人間的感情がしっかり身に付いていないわけです。これは、文章読解だけではなく、学校生活・社会生活にも多大な悪影響を及ぼしているだろうと思います。

それゆえに、当塾ではこうした部分も大きく含めて「国語力」だと考えているんですが、これは塾や学校だけではなかなか身に付きにくいところです。正直に言えば、親密な関係にある集団の成員、つまり家族やそれに準ずる人達が大きな役割を果たす。しかし現代社会では、こうしたメンバーの不在や機能不全がまま見られる……。

もちろん、子供たちの国語力の低下はそれだけが原因ではありません。著者は国語力低迷の原因についてこう言います。

本書で多角的に詳しく取り上げましたが、一言でいえば現代社会を取り巻く諸問題が重なった結果です。家庭格差と言語発達の問題、ゆとり教育からつづく教育行政の落とし穴、深刻な教員不足と予算のなさ、ネット・SNSという特殊な言語環境、これらの要因が複雑に絡み合って、子供たちは生きる上で必要不可欠な国語力が身につきにくい環境におかれています。ギガスクール構想やアクティブラーニングなど、次々と目新しい教育プログラムは導入されているのに制度が形骸化しがちです。

まったくその通りだと思います。誰だって子供たちの国語力の低下を積極的に望んでいるわけではありません。学校の先生方はもちろん、保護者も文部科学官僚も、本人のため・日本の未来のため、子供の言葉の力を育みたいと思っているはず。

でも現実は厳しい。そのあたりを詳細に描き出してくれるのが本書『誰が国語力を殺すのか』なんですが、長くなってきたので、この続きは別稿にて。