つい最近入手したイースタン・ユースのシングルCDに『サヨナラダケガ人生ダ』という曲が収録されていました(名曲だ)。このフレーズをご存知の方も多いと思います。于武陵(うぶりょう)の漢詩を、井伏鱒二が現代語訳した際に用いたフレーズです。
イースタン・ユースの曲も井伏鱒二の訳をそのまま歌詞にしています。井伏鱒二の訳は次の通り。
『勧酒』于武陵
勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
『酒ヲ勧ム』井伏鱒二訳
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
漢詩の細かい解説はしませんが、日本語訳は文学者の面目躍如たるものがあります。
人生には、もちろん出会いも喜びも楽しみもあるけれど、振り返ってみた時、別離だけが、あの人との別れだけが胸に去来する。「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」は、そんな想いの吐露だと思います。
さて、この記事で問題にしたいのは「卮(巵)」という漢字です。
この漢字、「さかずき」と訓読みしますので、私のイメージとしては、「ごくごく小さな酒杯」だったんですね。婚礼の際に三三九度なんて儀式がありますが、あの儀式で使うぐらいの小さな盃のイメージです。
井伏鱒二の訳も昔から知ってはいましたが、訳中の「ナミナミ」というのは「満酌」を置き換えただけのものだとばかり思っていたんですよね。
で、最近漢文の資料を見ていた時に、久々に下記の有名な文章に出会いました。そうだ!そうだった!ここで「卮」が使われていたんだった!
「臣死且不避、卮酒安足辞」(史記)
訓読すると、「しんしすらかつさけず、ししゅいずくんぞじするにたらん」となります。訳は「私めは死でさえ避けません。さかずきの酒ごとき、どうして辞退することがありましょうか。」といったところ。
もちろん、「卮酒」がおちょこ一杯ぐらいの量だとしても理屈は成立します。「死の苦しみ>卮酒の苦しみ」ですからね。
しかし、「『卮酒』を『辞退』するかどうか」ということをわざわざ話題とし、そして「死」を避けるか否かを比較材料として持ち出すことを考えれば、常識的には、「卮酒」=「大量の酒」だと考える方が自然です。
というか、この文章の出所である「鴻門之会」のストーリーを考えれば、明らかに「なみなみと注がれた酒」のイメージなんですけどね。
ここで漢和辞典に当たってみましょう。
漢辞海(第4版)
木を円筒状に曲げ、漆をぬった酒器。さかずき・サカヅキ。《ジョッキのような持ち手がつくことが多く、ふたがつくものもある。大きなものは一斗(=二リットル弱)入り、ふつうは二升(=四〇〇ミリリットル弱)程度の容積》
漢字源(改訂新版)
さかずき(さかづき)。四升入りの杯。
漢検漢字辞典(第二版)
酒が四升(約七・二リットル)も入る大杯。
やっぱり、日本でイメージする「さかずき」と「卮」の容量は大きく異なりますね。その点をスラッと表現している井伏鱒二はやっぱり優れた文学者だなと改めて感じた次第なんですが、次なる疑問が。
漢検漢字辞典は「酒が四升(約七・二リットル)も入る大杯」という説明をしていますが、これ、飲めるはずがないのでは?というか杯を持ち上げるだけでも一苦労でしょう(笑)。漢字源も「四升入りの杯」としか説明していないので、普通に考えて、(1升=約1.8Lだから)七・二リットルの容量なのかなと思ってしまいます。
この点、漢辞海の説明は分かりよいですね。400mlから2000ml程度ということが分かります。これなら「わしの酒が飲めぬというか?」という舞台にぴったりの酒量です。楽々一気に飲めるわけではなく、かといって絶対に飲めないという量でもないわけですから。
より詳しく調べてみると、「鴻門之会」は紀元前206年の話。その頃の度量衡は、日本と大きく事情が異なっていました。1升=0.194L 1斗=1.94L らしい。なるほどなるほど、漢辞海の正確性が判明するとともに、「鴻門之会」のリアルなイメージもわいてきますよね。
まとめ。
「卮(巵)」は大容量の杯である。
私の場合、一滴もアルコールが飲めないので、「卮酒」イコール致死量ですね……。スポーツドリンクぐらいならなんとかなるかもですが(笑)。