フィッシュマンズという稀有なバンドがありました。そのフロントマンを務めていたのが佐藤伸治。若くして亡くなられました。享年33。
フィッシュマンズは独特の感覚を持っているせいか、どちからというと、音楽をマニアックに好む人達にウケがいいバンドです。日本のみならず海外にもファンの多いバンドでして、権威ある某欧米音楽サイトでは、彼らのアルバムが世界で5位だったか、6位だったかに選出されています。単年度ではなくて今までのポピュラー音楽史の中で、です。もちろん日本のミュージシャン・バンドとしては異例中の異例。
音楽、いや、フィッシュマンズの場合「音像」と言った方がイメージに近いんですが、この「音像」面では上述の通り、海外の人にも理解しやすい(または海外の人の方が高く評価しやすい)ものだと思います。
ちょっと強引にまとめることが許されるならば、ひんやりとした広い空間を感じさせるダブ味の強い音楽。アメリカ合衆国の強い影響の下、ジャマイカで生まれたレゲエが、はるばる極東の日本にまで伝わって、こんな進化・深化を遂げるなんて。この点だけでも、驚きに値すると思うんですが、この記事では、佐藤伸治の言語感覚について取り上げたいと思います。一応国語塾ブログなんですよね、このブログ(笑)。
まず「フィッシュマンズ」というバンド名からして、かなり異質感がありますよね。
「漁師」なら「フィッシャーマン(fisherman)」なので、「フィッシュマン」とは「魚男・魚人」なのでしょうか?しかも「マン(man)」の複数形は「メン(men)」ですから、「マンズ」とはさらに訳がわからない。
しかし、バンド名の語感としては「フィッシュマンズ」以外にはあり得ないんですよね。「フィッシャーメン」「フィッシャーマンズ」は、長音が間延びした感じを与えて彼らの音像にそぐわないし、「フィッシュメン」では最後の濁音のざらつき感がなくなって、これまた彼らの音像に似合いません。
やっぱり、バンド名としては、「フィッシュマンズ」以外にはあり得ないと私は思います。
フィッシュマンズには『宇宙 日本 世田谷』というアルバムがあります。彼らの諸作品の中でもとりわけ印象深い名作ですが、このタイトルを初めて目にした時、佐藤伸治って物凄い言語感覚を持つ人だなと感じたんですよね。

このタイトルは五・七・五のリズムを踏んでいるわけではありませんので、もちろん俳句ではないんですが、強い俳味を感じます。極めて少ない音韻で、無限のスピードと広がりを感じさせる文学味と言いましょうか。
普通、ものの見方として、宇宙からスタートするなら、
宇宙→銀河→太陽系→地球→アジア→日本→関東地方→東京→世田谷
という風に考えますよね。宇宙と日本を直結させることもないし、そもそも宇宙と世田谷という東京の一区画を同一線上で考えることもないでしょう。
しかし、ここで示される世界観は『宇宙 日本 世田谷』。凄まじいスピードで視点が移動しているということになりますが、エンジンのついたビークル、例えばバイクや自動車のスピード感ではありません。人間がまだ持ち得ない科学力を用いたワープ航法のようなスピード感です。そのスピード感で宇宙と世田谷が双方向的に結ばれる。
これはほとんど芭蕉的な域に達した表現だと思います。ワンフレーズにほとんど無限が込められている。
次は私の胸を打つ歌詞から。フィッシュマンズには『空中キャンプ』という大傑作アルバムがあります。このタイトル自体もジャケット写真と相まって、独特の空気感をまとっているんですが、そこに収録されている『すばらしくてNICE CHOICE』の歌詞冒頭部は、聴く度に私に美しい輝きを感じさせてくれます。
すばらしく NICE CHOICE な瞬間
そっと運命に出会い 運命に笑う作詞:佐藤伸治
作曲:佐藤伸治
この助詞の使い方!これこそは詩人・俳人のセンスであって、常人には真似の出来ないところです。ここら辺になると、もう国語力というより詩的感覚なので、勉強から離れますが、私なりに説明しましょう。
「そっと運命に出会い」
「運命」「出会う」の二語を結ぶ助詞としては、一般的に「と」・「に」の 二つが考えられます。
運命「と」出会う
→運命という相手が自分から独立していて、別個の存在として捉えられている。やや自分と運命の間に距離感があるといってもいい。
運命「に」出会う
→自分と運命の間に距離感があまりない。運命と自分が接着している感覚。「椅子に座る」とか「壁にもたれる」といった例を出せばお分かり頂けるでしょうか。
「運命に笑う」
「運命」「笑う」の二語を結ぶ助詞としては、一般的に「を」・「に」の 二つが考えられます。
運命「を」笑う
→運命という相手は自分よりも下の位置にある。自分は運命を「見下す」かたちで笑っている。かなり冷笑的なイメージ。
運命「に」笑う
→自分と運命は同一地平上にある。自分と同列にある運命を迎え入れている。運命が良いものであれ悪いものであれ、拒むことなく受け入れるイメージ。
したがって、「そっと運命に出会い 運命に笑う」というフレーズは、「自分の身にぴったり寄り添うようにある運命を、拒むことなく穏やかに諾い(うべない)受け止めている」といった感じを(少なくとも私には)与えます。「そっと」という副詞も、そうした解釈にナチュラルにつながってきますしね。全体として強い「俳味」を感じさせる表現だと私は思います。
納得できない人は、「そっと運命と出会い 運命を笑う」という改変フレーズを考えてもらうといいかもしれません。佐藤伸治の書いた句よりも格段にセンスが落ちるのを感じ取れるんじゃないでしょうか。
もう佐藤伸治はこの世にいませんが、彼の音楽はいつまでも語り継がれ聴き継がれるべきものだと思います。私ごときが言わずとも、そうなることは確実ですけれどね。