昨日(2022.09.27)、安倍晋三氏の国葬儀が執り行われました。特に興味はないので映像を見てはいませんが、国葬儀の実施については議論百出、これほどまで議論が沸騰するとは政府与党も考えていなかったんじゃないでしょうか。
例のごとく、このブログでは政治的な意見は書きませんが、ひょっとしたら「国が特定の人物について葬儀を主催することの是非」を論じさせる小論文が大学入試で出題されるかもしれません。いや、そんな大学ありませんか。
ただ、中学生や高校生も近い将来参政権を得る一主権者ですし、(ここを強調したいんですが)「国が特定の人物について葬儀を主催すること」の妥当性を考えるだけの材料は、学校教育の場で既に与えられているのではないかと思います。
今日はそんな観点からの覚書。
まず、何よりも問題になるのは憲法的観点だと思います。国葬の法的根拠の存在(または不存在)を証明すべく、かなり細かい法的議論をしている記事をそこら中で見ましたが、これはかなり的外れな議論であるように私には見えました。
法解釈の筋の善し悪しは別として、国民に義務を課すような事柄でない以上、(個別的規定ではなく)一般的規定を引っ張り出せば、「法的根拠」はいくらでも用意できるわけで、そんな議論は内閣法制局に任せておけば良いと思うんですよね。
私たち国民(というか中高生)の考えるべきことは、学校で習う「憲法」をベースとすべきではなかろうか。そしてその時、どんな中学生向けの社会教科書にも書いてある「法の下の平等」(憲法14条)が問題になると考えるのはさして難しいことではないのではないか。
私やあなたが死んでもおそらく「国葬」はやって貰えないのに、なぜ安倍氏だけが「国葬」に付されるのか。これは憲法の大原則たる「平等権」からはちょっと説明がつけにくい事態だろうと思います。感情を排して考える時、私もあなたも国葬に付してもらわないと平等でないですよね。
別に熱心に調べていたわけではありませんが、この観点から国葬問題を捉えた論客はほとんどいなかったように思います。私の目に触れた中では、例外的に東京都立大学の木村草太教授が平等原則の観点からこの問題を取り上げていました。このような捉え方が、最も素直で中高生に理解しやすいのではないかと思います。
社会科・憲法を離れて、次は現代文的というか現代思想的というか、そうした観点からの覚書。
手元にある大学入試向けの問題集に掲載されている文章を引用してみましょう。今村仁司『精神の政治学』からの引用です。
ところで、儀礼的行為の実証的研究はあまたある。日常的なアイサツから時折の儀式を経て壮大な国家儀礼や宗教儀礼にいたる、こまごました研究が人類学者、歴史学者、社会学者によって報告されている。
(中略)
そのように捉えどころのない儀礼研究を見ていて私はつねにこう思う。人間はなぜかくもいろいろの紋切型をつくりだすのか、まわりくどい儀礼なしに素直に単刀直入に社会的交通を行なうことができないものか、と。こういう問いの立て方は、多分、近代的で合理主義的なのだろう。事実、合理主義的発想は、人間の社会的交通が儀礼なしに、理性というメディウムのみで十分可能だと考えている。しかしこの理性主義的交通論は、本質的なものを欠如している。少くともその考え方は、実現不可能な絵空事を語っている。 なぜなら、型通りの儀礼的行為は、社会的人間の本性にすらなっており、人間の第二の自然とさえ言えるからである。これまで人間は、日常の社会的関係の中で、理性という媒体のみで振舞ったことは全くない。
(中略)
社会の歴史と現実をいささかでも調べたものには、また少々のリアリスティックなセンスを持った者には、理想的な(理性的)対話で社会的人間が動くとは思われない。私たちにとって大切なのは、紋切型の良し悪しをあげつらうのではなくて、なぜ、いかにして、人間は型にはまる儀礼を創出しつづけねばならないか、を何はともあれ知ることである。
中学生にはちょっと難しめの文章でしょうか。高校生というか大学受験生ならスラスラ読んで欲しいところ。要するに、人間が社会の一員として行動する際、どうして儀礼が必要になるのかという話です。「儀式なんて下らないよね、そんな不合理なことをしない方が合理的だよね」なんて考えは絵空事なのであって、儀礼という形式は人間の本性ですらある、というわけです(その証明はここでは示されていませんが)。
権力が儀式・儀礼を重んじることは、ある意味当然のことです。権力は権威を欲するものですが、権威は儀式・儀礼で高められるからです。この考えと、上記の「儀礼という形式は人間の本性ですらある」という考えを合わせれば、国が重要人物の葬儀を執り行うということは、ある意味「当然」の事理だといえるでしょう。
国葬賛成という結論を導きたい人は、この方向性で論述すればいいかなと思います。
次に漢文の観点から。
論語にこんな文があります。書き下し文にしておきます。
喪ハ其ノ易メンヨリハ寧ロ戚メ
(もはそのおさめんよりはむしろいため)
「葬儀というものは、世間体をととのえるためのものではない。むしろ心から悲しめ。」というような意味ですが、個人的には大いに賛同できる見解です。私も一度喪主を務めたことがありますが、本当に心から悲しんでいる時に、どうでもいい世間体の話をされるとイラッとしましたから。
国葬反対という結論を導きたい人は、儀式の重要性に触れながらも、論語を引きつつ葬儀の本質に関する見解を述べ、憲法の平等原則で補強すればよろしいかと思います。
言わずもがなのことかもしれませんが、最後に。
葬儀のことで延々揉めるって、(悪い意味で)すごく田舎臭いなと思うんですよね。
田舎の方だと、やれ誰が喪主をするのかとか、やれ戒名はこれぐらいの長さでないとダメだとか(戒名の長さは支払う金額の多寡で決まります)、やれ葬儀での席順はどうするのかとか、弔電を読む順番はどうするのかとか、お骨揚げに誰が参加するのかとか、しょーもないことで無限に揉めているようなイメージがあります(ちょっと偏見ですね)。
国葬に関する今回の議論、政府与党の、なんだかんだ言っても自分たちの支持基盤は依然として田舎にあるんだという認識が遠因になっているような気がします。あ、こんなことは、小論文試験では書かないように(笑)。