『井関隆子日記』(センター試験1999年出題)に思うこと

少し古いセンター試験の古文問題の話。

平成11年(1999年)は、『井関隆子日記』からの出題だったんですが、これがなかなか面白い。授業ではないので、解き方や細かい解釈はさておき、興味深い部分をご紹介します。なお、訳は私の方で付けておきますが、ブログ向きに意訳している部分があるのでご注意を。

まずリード文に、「江戸時代後期に生きた武家の女性が書いた日記の一節である」ということが示された上で、隆子が亡夫の17回忌にまつわるあれこれを差配しているところから問題文は始まっています。そこから、亡夫が亡くなった際の回想へと話は移るんですが、病を得た夫はこう言います。

かくてはえ生くべくもあらず、いかにかせまし、とて憂ひ嘆かれしを、かたへに聞く心地、え堪へがたかりしが、(中略) いかがはかけとどめむ。

「こうなっては生きることはできないだろう、どうすればいいのか……」と言って夫が悲しみ嘆かれるのを、傍らで聞くのは、耐えがたい気持ちであったけれど、(中略) どうして生きながらえさせてあげられようか。

家族が病を得て、もう手の施しようがないとなった時、残される家族はどんな気持ちになるのか。私には経験があるので分かりますが、井関隆子の日記は、本当に、愛した人を喪ったことのある経験を持つ人にしか書けない文章です。文章全体にあらわれる、隆子の夫への愛情が胸を打ちます。

そして話は「悟り」への批判へと展開します。

あり果てぬ世にはあれども今はとて命惜しみし人しかなしも

かかるぞ人の真心にはありける。契沖とかいへりし法師の言ひしごと、今はの際にいたりて悟りがましき事言ふ人は、人のまことならずと言へる、さもあることなりかし。

ふたたびとあはぬこの世を惜し気なくさかしら言ふは人のまことか

(和歌) 永遠に生き続けることのできるこの世ではないけれど、今はもう最期だと命を惜しんだ夫のことを思い出すと、切なくてならない。

こうして命を惜しむのが人間の真実である。契沖とかいった僧が言ったように、最期におよんで悟りっぽいことを言う人は、人間の真実からかけ離れている。本当にそう思う。

(和歌) 死んでしまえば二度と会えないこの世なのに、惜しげも無く、悟ったふうなことを言うのは、人間としておかしいだろう!

ここで出てくる「契沖」は、前回ご紹介した私の敬愛する契沖先生です。お寺の住職をなさっていたけれど、悟りがましいことなんて言わなかったのが、契沖先生らしくてとてもいい。自分が死にゆくとき、人が死んでゆくとき、平然としていることが仏の教えなら、そんなのいらねえよとでも考えていらっしゃったのだろうと思います。

最後は「悟り」への痛烈な批判。

おほかた、悟りてふものは詞のうへのみにて、まことにしか思ひきはめたる人なむなかめる。それもしまことにあらむには、その生まれいと愚かにして足らはず、父母妻子をもかなしとも思ひたらず、世の中のさまももののあはれもえ知らぬ痴れ者にて、とり所なき人なるべし。

そもそも、悟りなんていうのは言葉の遊びみたいなもので、本当にそう思い決めている人なんていないだろう。もし本当にそう思っている人がいるなら、それは生まれつきちょっと頭の足りない人だ。家族を愛しいと思っておらず、世の中の様子も、もののあわれも分からない馬鹿者で、取り柄のない人だろう。

とても辛辣ですね(笑)。でも、私もそう思います。人間に悟りなんて開けるわけがありません。悟りを開いた人なんて言うのは、ほとんどの場合、商売の都合上そう言っているだけ。凡夫は叫んだり喚いたり、泣いたり笑ったり、愛したり苦しんだりして生きてゆくしかない。そして、それでいいんだと思います。

170年前の女性の書いた文章ですが、「あなたの言いたいことは本当によく分かりますよ」と、傍らで相づちを打ちたい気持ちになる文章です。