本日2020年11月1日は、またもや大阪市の住民投票の日。
このブログでは政治的な話をしないことにしていますが、今回の投票は「大阪市廃止の是非」というシングル・イシューを問うものであり、政治的党派性を持ち込むべきでない問題だと思います。実際は別として、少なくとも理屈の上ではそうあるべきでしょう。
そんなわけで、今回は記録も兼ねて、思うことを書き連ねておこうと思います。この大阪市住民投票については、既に識者や政治家達からあらゆる意見が出されており、似たような話をして屋上屋を架すことになるかもしれませんが、できるだけ人々があまり触れなかった話を中心にしたいと思います。
まず結論から言うと、私は大阪市を廃することについて「反対」です。住民投票公示日翌日にたまたま天王寺区役所に用事があったので、期日前投票ですでに反対票を投じてあります。
普通の国政選挙であれば、もう少し考えてからということもありますが、今回に関しては一点の曇りもなく「反対」です。というか、何故にこんな話が持ち上がってくるのかが全く分からない。
私、生まれてこの方50年以上、一秒たりとも大阪市民でなかったことはないので(住民票を大阪市以外に移したことがないのです)、少なくとも八尾市出身の現大阪市長・河内長野市出身の現大阪府知事よりは、大阪市民として「先輩」です。おい、ちょっと後輩、言わせてもらおうか(笑)。
大学は法学部でしたので、政治学についてはそれなりに勉強したつもりですが、結局のところ、政治とは「権力・利益の分配」です。政治システムとは、誰にどれだけの権力・利益を分配するのかを決定するシステムと言っていいでしょう。
昔だったら、殴りあったり殺し合ったりして「権力・利益の分配」を決定していたわけですが、今はご存知の通り民主主義というシステムがあります。流血沙汰にならないよう、徹底的に議論をし、投票で決を採るわけです。これは人間の作った優れた制度の一つだと思います(もちろん完全にはほど遠い制度だけれど、これに勝る制度も特に見つからない)。
ここまでは小学生でも分かってもらえると思いますが、ここからは少し大人の話。
「権力・利益の分配」というのは、究極的には「カネの分配」です。もちろん、世の中すべて「カネ」だと言いたいわけではありません。人生にはそんなものよりもっと素晴らしいものがあるはず。ただ、現代社会では、やっぱり「政治権力=カネ」なんですよね。
裕福な自治体は発言力があり住民へのサービスも比較的手厚い。そうでない自治体は発言力が乏しく住民へのサービスもそれなり。これは大人であれば誰でも知っている話ですよね。
そうであってみれば、各自治体の住民は、各自の稼いだ富をあまり外部に流出させない方がいい。それが自分たちの住まう自治体を豊かにし、結局は自分たちの利益となる。そうした考えから、私はいわゆる「ふるさと納税」をしたことがありません。ちょっとした贈答品という目先の利益に釣られず、大阪市民として大阪市に貢献した方が、結局自分にも家族にも得だと思うからです。情けは人のためならず。
そうした考えからすると、「大阪市を廃止し特別区に分割することの是非を問う」なんて言われても困惑するばかりです。比較的財源規模の大きい大阪市を、財源規模の小さい自治体にわざわざ分割する?その上、新しくできる特別区の予算を大阪府の議会に委ねる?意味が分からなすぎるんだけど……。
喩えていえばこんな感じです。日本の税収は一旦「国際連合」にすべて預けよう。国際連合は良識ある組織だから、きっと世界平和のことを考えて日本にちゃんと分配してくれるはず……。
ありえないですよね。国連総会ではどんなに小さな国も「一票の権利」を有しています。超大国に持っていかれるか、(言葉は悪いですが)豊かでない国連合に食いつぶされるのがオチでしょう。
あまり詳しくはありませんが、今流行りの「鬼滅の刃」で、主人公の炭治郎が叱咤されるシーンがあります。「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」と激怒されるんですよね。私からすると至極真っ当な意見。今回の住民投票はその言葉を思い起こさせます。大阪市民の金銭・権力を他人に握らせる必要は全くないと思います。
こうした類いの話は、甘い理想論の顔をして現れることが多いように思います。実際的・現実的な観点や緻密な理論では対抗できないからです。
前回住民投票時に主導的役割を果たした当時の市長は、「ふわっとした民意をつかむ」ということを力説していました。「実際的・現実的な観点から、市民に多大な利益をもたらすことを説明する」とか「緻密な政治理論を突き詰めた帰結であることを証明する」なんてことは絶対に言わない。ふわーっとした理想論で人々を釣る。
政治は甘い理想論で語られるべきでないと思います。どこまでも冷徹な現実・利益衡量の話として政治は語られるべきでしょう。理想論を振り回すナイーブな政治家、もしくはナイーブな振りをしている政治家はさっさと退去して欲しいですね。それは国民・市民にとってとても危険な人達だと思うからです。
ちょっと別の観点からも。
調べてみると、前回の住民投票は2015年5月17日。たったの5年でまたもや住民投票です。前回選挙期間中、「これがラストチャンスだ!」と何度聞いたか分からない。「ラストチャンス」というのは「最後の機会」という意味なのだと、塾に呼びつけて3000回ぐらい教えてやりたい気分ですよね(笑)。
どれだけ270万人大阪市民を軽視しているのかと思います。200万人以上の有権者に面倒が生じるのはもちろん、選挙運動で喚きたてられる迷惑は子供たちにも及びます。
塾で授業をしている時も、演説カーが回ってくると本当にうるさいんですよね。賛成派も反対派もなんであんなに大声を張り上げるのか。文字通り耳を塞ぐ子供もいます(子供は大人より聴覚が敏感なのです)。
授業を録画している時も、お構いなしに演説カーは回ってきます。オンラインで受講してくださっている方々に迷惑をお掛けしてしまい、大阪市民として大変申し訳なく思っています。
法的紛争解決、つまり訴訟の世界では、刑事事件・民事事件のいずれにおいても、「事件の蒸し返し」を厳しく回避するシステムが確立しています。つまり、刑事訴訟であれ、民事訴訟であれ、一旦判決が確定すれば、その事件が再び審理されることは原則としてありません。
これは考えてみれば至極当然の話です。仮にあなたが電車に乗っていて、やってもいないのに痴漢だと決めつけられ、刑事訴訟にかけられたとしましょう。周囲や職場の人達からの冷たい視線に耐えながら、多額の弁護費用を支出し、数年をかけてようやく無罪を勝ち取る。人生をすり減らしたと思っていたら、また数年後に「あの裁判やっぱりやり直すわ〜」なんて言われる。もう人権もへったくれもありません。民事訴訟でも事情は同じです。
加えて、司法システムも無限ではありません。同じ裁判を何度もするなんていうのは、マンパワー的にも金銭的にも大いなる浪費です。司法システムは国民の税金で運営されている共有財産です。無駄遣いは許されない。
と、まあ法律を学んだことがある人なら、誰でも常識的に知っている話なんですが、この思想は住民投票にも妥当すると思うんですよね。訴訟なら不利益を被るのは少数の訴訟関係者だけですが、住民投票は自治体住民全員、270万人大阪市民が巻き込まれる訳ですからね。もちろん投票開票の金銭的コストも莫大なものになります。
その点だけでも、本当に筋が悪いと思うんですが、今回の住民投票を強力に推進してきた現府知事は法律家。法システムの蹂躙とまでは申しませんが、市民から見て乱暴であるとの感は否めません。
今回の住民投票を「大阪都構想住民投票」と呼ぶのも、不誠実な姿勢に見えてなりません。投票で賛成多数となっても、「大阪都」が生まれるわけではないので、看板に偽りありというところです。
「大阪市を廃止し特別区に分割することの是非を問う住民投票」という正式名称、略するならば「大阪市廃止住民投票」と言うべきですよね。そのあたりの言葉をうやむやにする姿勢は、やはり市民に対して不誠実なものだと思います。
失礼な言い方かもしれませんが、「都構想」を推進する政治家のレベルを私が見るに、うまくこうしたシステムの絵を描ける人はあまりいないでしょう。おそらくは上山信一氏あたりの描いた絵を彼らは教条的に奉じているだけではないかと。大学の先輩ではありますが、私はその考えを奉じる気にはなれません。
実は、大阪市立小学校の採用教科書も、この「大阪市廃止問題」の影響をすでに受けておりまして、塾としては結構な迷惑を被っております。また気が向けば詳しく書きますが、小学生にもかなりの迷惑を及ぼすシステムになっておりまして、溜息しきり。
賛成派が多数なら、もちろんそれはそれで従いますが、迷惑を掛けるのはもうこれきりにして欲しいと思っています。
前回住民投票時に感じたことはこちら。