旅行の自由

「好きな場所に移動・旅行してかまわない」というのは、本当に人間の本質にかかわる権利だなと、最近しみじみ思うようになりました。

堅い話になりますが、上記のような権利は、日本国憲法に規定されていると解されています。第22条1項には、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」とありまして(いわゆる居住移転の自由)、この中に「好きなところに旅行できる自由」が含まれていると解するわけです。

憲法学を学んだ人ならご存知だと思いますが、基本的人権はいくつかの類型に分類されます。自由権・社会権・参政権など。で、この「居住移転の自由」は文字通り「自由権」(国からあれこれ指図されない権利)なんですが、この自由権のなかでもさらに細かい分類が用意されています。

憲法学の教科書を引っ張り出すのは面倒なので、Wikipediaから引用させてもらいますと、次の通り。

経済的自由権としての性格
人は自由な居住・移転を通じ、自己の経済生活を維持・発展させる。例えば、人が就労場所を自由に選ぶためには、居住移転の自由が確保されている必要がある。

身体的自由権としての性格
自己の移動したい所に移動できるという点で身体の自由としての側面も有する。身体の自由は、単に拘束されないという消極的な自由に止まらず、自分の好きな所に居住・移転する積極的な自由をも含む。

精神的自由権としての性格
人が自分の好むところに移動することは、表現の自由・集会の自由と密接な関係にある。また移動の自由は、人間の活動範囲を広げ、新しい人的接触の場を得る機会を与えることにより、人格の形成と成長に不可欠の条件となる。

ウィキペディア(Wikipedia)「居住移転の自由」より引用

何かややこしい話をしていると思われそうなので、簡単にまとめ直しますと、

経済的自由権としての性格
封建時代は土地に人間が縛りつけられていた。その束縛を解き放って、自由に商売・労働できるように、どんな場所に移動してもいいということにしよう。

身体的自由権としての性格
身体を束縛されるのは苦痛だよね、だから好きな場所に行けることにしよう。

精神的自由権としての性格
経済・労働なんかを考える以前に、好きな場所に行って、好きなものを見たり、好きに人と話したりできること、それ自体が人間の精神にとってはとても大切だよね。No Travel, No Life だよね。だから好きな場所に好きな時に行けることにしよう。

平たく言い直せばそんなところです。


冒頭に書きましたように、「旅行の自由」というのは、自分にとって精神的自由そのものだな、精神的自由の中核だな、と感じるようになってきている私なんですが、その大きな理由は、やはり今回の「コロナ禍」です。

今でこそそれほど圧迫感を覚えなくなりましたが、緊急事態宣言の出た頃は、どこかに出かけることが、本当に「非常識」「反社会的」と思われかねない状況でしたから、私のような野放図な人間でも、バイクなり自動車なりに乗ってどこかに出かけるということを自粛せざるを得ませんでした。

そうなってみて初めて分かる「どこにでも好きに出かけることができる状況」の大切さ。実際に出かけるかどうかは別として、「好き勝手にどこかに出かけられる状況」が、どれほど自分の心の安らぎにつながっているのかが実感されました。

「引きこもり」自体はそれほど苦にならない性格なんですが、それも、思い立ったら「好き勝手にどこかに出かけられる状況」があっての事だということにも気付かされました。

好きな場所に出かけるということは、人間精神の本質的な欲求であり、喜びの源泉でもある。そう本心から思うようになれたのは、コロナ禍がもたらしてくれた数少ない利益の一つかなと思います。

まあ、私の仕事が職住一体型であり、意識的にどこかに出かけないと完全に引きこもり状態になってしまうという事情がそう思わせるだけなのかもしれませんが……(笑)。

まだコロナ禍が収束したとは言えないので、用心を重ねる必要がありますが、それなりに出かけられる状況になってきたのはありがたい話ですね。


息子や妻と出かけた場所の話や、自分一人でフラフラ出かけた先の話をまたブログに書こうかな、という気になっておりまして、今回はその前置き的な話でした。理屈っぽくて話が長い?はい、それは認めます(笑)。