春到来。仕事の方も繁忙期を乗り切って、ようやく通常運転です。やっと休みが取れるようになりました。しばらくはホワイト企業としてやっていこう(笑)。
気がついたら、ブログの方はしばらくほったらかしでしたね。書きたいことが山ほどあって困るんですが、何から書きましょうか。春らしい歌の話でも書きましょうかね。
吉田拓郎に『春だったね』という歌があります。
春だったね 92 吉田拓郎
私自身、吉田拓郎氏にはなじみが薄く、ほとんど曲を知らないんですが、さすがにこの曲は知っています。何というか、歌詞が型破りで面白い(作詞者は吉田拓郎ではなく田口淑子)。
僕を忘れた頃に
君を忘れられない
そんな僕の手紙が着く
この文章を一読して瞬時に文意を把握できる人は、今すぐ国語教師になれると思います。マジで。何が凄いといって、主語の省略の仕方が大胆すぎるぐらいに大胆なんですよね。
(ちなみに副代表にこの歌詞を伝えたところ、ほぼ瞬時に私と同じような解釈をしていました。うん、信頼のおけるスタッフです。)
普通に読むとこんな疑問が思い浮かぶんじゃないでしょうか。
僕を忘れた頃に (誰が?)
君を忘れられない (誰が?)
そんな僕の手紙が着く (誰の元に?)
私の場合は、仕事柄色々な文章を読んでいますし、音楽が趣味でもある関係から、色々な歌詞に触れています。しかも、様々なレベルの生徒の(失礼ながら)未熟な文章にも日々触れています。そんなわけで、この歌詞の解釈にも困難は感じないんですが、ちょっと「源氏物語」などの難解な平安時代の文章を思わせる主語の飛ばし方です。
まず、この曲が吉田拓郎の曲であること、つまり、フォークまたはロックの文脈で捉えられるべき曲であることを前提としましょう。こうしたジャンルの音楽は「恋愛」が主題となることが多いのはどなたもよくご存知のはず。
とすれば、この『春だったね』についても、語り手の僕(男性)と恋愛対象の君(女性)が登場人物だと措定するべきでしょう。
第1行
「僕が」僕を忘れるはずはありませんから、「君が」僕を忘れていることになります。「君が」という主語がバッサリと省略されているわけですね。彼女からすると、もうこの恋はとうの昔に終わったこと。思い出すことすらない。
第2行
上記と同じく、「君が」君を忘れるはずはありませんから、「僕が」君を忘れられないということになります。ここでも、「僕は」という主語がバッサリと省略されているわけですね。彼女と違って、僕は未練たらたら。彼女のことを忘れることが出来ない。
第3行
「そんな」という指示語。上記二行を指しているわけですから、手紙が丁寧に書かれていると想定すれば、内容はこんなところでしょう。
「君はもう僕のことを忘れてしまったかな?僕は今でもあなたのことが忘れられず、ずっと思い続けています。」
僕の書いたそんな手紙が「君の(彼女の)元に」着く。
何か、すっごく未練たらしい男性像が浮かんできますよね。嫌だなあ(笑)。私などは現実的なのか、「もう次の女の子に行こうぜ!」とアドバイスしたくなるんですが、女性だともっとイラッとくるんじゃないでしょうか。女性ってこういうところにすごくドライですよね。多分、この元彼女、もう他の男性と腕を組んで歩いているような気がする……。
とまあ、この曲に描かれる男性像にはあまり共感を覚えないんですが、この歌詞の圧縮度合、情報量の多さは本当に素晴らしいと思います。
上にも少し書きましたが、古文の難しさの一因は「主語の省略の激しさ」にあると思うんですよね。古典文法や古語は勉強すればすぐに身に付きますが、文脈から省略された主語を推知するという能力はなかなか身に付きにくい。
思うに、平安時代なんかは、文章を読んだり書いたりするのは、一定以上の知識層だけですよね。そうしたインテリ達であれば、主語がどんどん削り落とされている文章であっても、それを読み解くことに困難はなかったでしょう。
むしろ、分かり切った主語を明示しまくる煩雑な文章は、無粋な文章として見下されたはず。ましてや、三十一文字(みそひともじ)とも呼ばれる究極的な短詩型文学、つまり和歌に重きが置かれた時代ともなれば……。
そんなわけで、この歌詞は、和歌の伝統や古文の感覚を色濃く持っているものだと思う次第。だからこそ人々の心を打ち、今に至るまで歌い継がれているんじゃないでしょうか。
答案表現上、どのように主語を置くべきか・置かざるべきかというトピックは、いつも力を入れて説明している部分です。そこまで話を展開する予定だったんですが、明日もまた朝早くから授業。ということで今日はここらで擱筆。