毎日があっというまに過ぎていきます。もう今年も6月に。「昨日こそ早苗取りしか」という和歌みたいな気分です。まだ秋ではないですけどね。
さて、先日用事があって、光村図書(国語教科書の代表的な出版社)のウェブサイトをうろうろしていたんですが、そこで見つけた記事が感動的なものでした。筆者は哲学者の鷲田清一先生。大学入試受験生にはおなじみの学者さんですね。
「アホになれんやつがほんまのアホや」
https://assets.mitsumura-tosho.co.jp/3916/7534/4993/kouhoushi_s7601.pdf
(以下、引用部分は上記記事から)
「アホ」という言葉には、「蔑み」ではなく「慈しみ」の要素があるという話の後で、このような例を出されます。
阪神・淡路大震災のときもそうだった。夫の圧死についてたとえばこんなふうに語りだす被災者がいた。
「わたしが二階にいまして、一階にいた主人が、二階に妻がいます、助けてくださいと叫んだんです。そしたらな……(一呼吸おいて)二階が一階になりましてん」。
もし自分の目の前で、家族を失われた方がそんな話をされたら、正直どう反応すれば良いのか。震災から何年も経った今ならともかく、体や心の傷跡もまだ癒えぬ被災者がそんな話をなさったら……。
わたしも泣き笑いといったような語りに当時、何度も接した。笑いをまじえることで悲しみがきら星のように点滅し、感情のそうした振幅によって悲しさがいっそう深まる、そのような語りは、同時に、痛々しくて聴くにしのびない話を、それでも固唾を呑んで聴こうとしているその聴き手の緊張を、さりげなくほどいてくれもした。そういう相手への思いやりが、慰められる側ともいうべき被災者のことばにこもっていた。
私も心から賛同します。人生は喜びだけでもなく悲しみだけでもない、歓喜と悲哀のつづれ織りのような人生の中で、私達は感情を揺り動かして生きている。笑いの中にある悲しみ、悲しみの中にある笑い。そうであるからこそ、悲しみや喜びにリアリティが感じられる。
そして、自らが悲しみのどん底に沈みながらも、自分の話を聞いてくれる人に過度の緊張を与えぬよう、やさしく寄り添い、さりげなく緊張をほどこうとする姿勢を持つ人達。
私はこの話を読んで、胸と目頭が熱くなりました。人間って捨てたものではない、美しい心根を持った人達がまだまだ市井にはたくさん生きている。
そうした姿勢を持つ人のことを「アホ」と呼ぶのであれば、それはほとんど尊称でしょうね。
じぶんがアホに見られても、ときには悪者にすらなっても、それでまわりが和むならそれでいい……というセンスである。
「アホ」な人、それは美しい人だと思います。