前回の続きです。
今回の「おくのほそ道」シリーズ記事、タイトルに相違して全く松尾芭蕉の話をしていませんでした。ちょっとこじつけですが、芭蕉関係の話を。一応、塾ブログなので、たまには勉強関係の話もしないと。
過日、大学入試の問題をチェックしていて、下記のような文章に出会いました。
旅が「場」の顕在化を意味したというなら、旅とはすでに祝祭的である。というより、日常と祝祭の意識化が旅なのだ。民俗学でいう「晴」と「褻」の連接や交代の眺めは、芭蕉の旅路にも存在していた。俳諧にたずさわり、連衆と相会して連句を作り、批評を交わし、歓語し、宴を張り、それが果てての後は別れ別れに去ってゆくという芭蕉の時間の推移は、ちょうど季節の祭の歓を尽くしての後、乱散する玉串、七五三縄、酒盃、徳利の類を置き棄て、踏み分けて人々が立ってゆく祭りの終わりの情景に重ね合わされる。
高橋英夫「ミクロコスモス-松尾芭蕉に向って」より引用
大学入試の論説文としては標準的な難度の文章ですが、ここだけ読むとちょっと分かりにくいかもしれません。私なりの考えも補足しておきます。
芭蕉は文学に携わる者として、俳諧・連句の「場」に全霊を込め、魂を燃焼し尽くした。持てる限りの力を爆発させる「場」は、限時的なものでしかありえない。限られた時間に己の想念を激発させるという点において、旅と文学的な「場」は近しいものである。旅は文学的「場」だ。祝祭だ。晴(ハレ)だ。
って、何かカッコつけすぎですね(笑)。このブログ風に要約すると、「旅っていいよネ!」ということです。
だいたい、松尾芭蕉の俳句って、超重量級だと思うんですよね。いや、本当に。普通の俳句が一文字1グラムだとしたら、芭蕉の俳句って一文字1トンぐらいのイメージ。17文字しかないのに、10トン以上の質量を持つ作品。もちろんそれは比喩ですけれど、それぐらいに込められたものが大きいと私は感じます。
だから、芭蕉の作品を読むというのはとても疲れる作業だとも感じます。嫌いじゃないんですよ、嫌いじゃないけれど、とても精神的なエネルギーを使わせられる感じがある。もし、芭蕉って簡単じゃん、サクサク読めるよと言う人がいれば、それは文学的な天才であるか、何も分かっていない人だと思います。芭蕉の術策中にまんまとはまっているとでも申しますか。
実際に芭蕉が句を詠んだ場所に出かけて、その句を思い出してみると、慄然とすることがあります。この言葉しかありえないという表現が凄味をもって迫ってくる。
それは、へらへら笑っているようにすら見える軽い感じのピッチャーが、時速数百キロの豪速球を投げてくるようなものです。
芭蕉は自作の中から厳選に厳選を重ねた上で、徹底的に推敲を加えて作品化していたということが、学者による研究で明らかになっていますが、そりゃそうだろうと思います。私には、丹精を込めて精神的な爆発物を造っている芭蕉の姿が思い浮かぶんですが、それは少し恐ろしい気もする情景です。
って、全然旅行の話になってませんね。次回に続きます。次こそ最終回ということで。
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