虚言癖の行き着く先

世の中には嘘が溢れています。別にそれに憤慨しているわけではありません。虚々実々の中で暮らしてゆくのが人間というものですから。

しかし、嘘にも社会的に許されるものと許されないないものがありますよね。通常の人であれば、時に前者を活用しつつ、後者を上手く回避して生活しているわけです。後者の一部は法に触れることすらあるわけで、注意しないと大変なことになる。もちろん、普通に暮らしていれば、そんな大それた嘘をつく必要はありませんから、あまり気にもせずにいられる類の話です。

しかし、しかし。

時々、とてつもない嘘を並べ立てる人がいます。いわゆる「虚言癖」と呼ばれる性向を有する人たちです。私も学生生活の中で、幾人かそういう人に出会ったことがあります。

彼・彼女らと話をしていると、明らかに嘘だと分かる内容をどこまでも続けます。内容は大体において自己顕示的・自己誇示的なものが多い。適当にあしらうんですが、段々イライラしてきて(笑)、冷静に矛盾を指摘すると、躍起になって、更なる嘘が始まる。

「なぁなぁ、お前って何メートルぐらい潜れる?」

「そうだな、素潜りなら3メートルぐらいじゃないかな?」

「俺、素潜りで50メートル潜れるし!」

「おいおい、5メートルの間違いだろ。」

「いや、絶対に50メートル潜ったし。今年の夏、海で潜ってん!」

「100歩譲って、どうやって50メートルって測定したんだよ?素潜りなのに水深計でも持ってたのか?それにすごい水圧だろう?」

「いや、水面との距離で分かるんだ、水圧も俺なら耐えられる!」

「あ、そう、よかったね。」

話の相手をするのも、いい加減面倒臭い。周囲の人間もだんだん彼の話をまともに聞かなくなってくる。そうすると、さらに周囲の気を引こうとして嘘はエスカレートし、壮大さを増してゆく。

「なぁなぁ、お前って何メートルぐらい潜れる?」

「お前は50メートル潜れるんだろ、ハイ、凄いね。」

「いや、あれは勘違いだった。確実に100メートルは超えていたと思う。」

「そんな話は俺じゃなくて、ギネスブックの記録員にしてくれよ。」

私は暴力を使おうとは思いませんが、クラスメートの中には、イライラして殴りつける奴も出てきたりする……。もちろん、虚言君はクラスの中で孤立していくわけです。

加えて、虚言君は自己暗示にかかっているのか、「嘘」を「真実」だと考えている節がある。客観的思考を失い、主観的な自分の世界に没入している。

嘘を並べ立てることが自分の立場を危うくすることや、平気で嘘をつく人を友人にしたいなどと誰も思わぬことに、どうして気付かないのか。不思議で仕方がなかったんですが、大人になって冷静に考えてみると、自分を大きく見せたいという少年少女期〜思春期独特の発想が、ねじれた形で表現されていることに気付きます。

しかし、これはとても危険な自己表現。周囲(特に家族)が、きちんと導いてやる必要があると思います。社会との軋轢を生むほどの「嘘」は「悪」であること、主観に溺れてはいけないこと、周囲の大人がそうしたことを根気強く教えてやらない限り、虚言を自己の表現手段として固着させてしまう可能性があるのではないか。

最終的には、心理学や精神医学の領域だと思いますが、大江健三郎氏がどこかで書いていたことを思い出します(どの作品だったか失念、すみません)。大意はこんな感じ。

氏は幼い頃(小学1年ぐらいだったでしょうか)、空想の世界に浸るのが大好きだった。その空想を面白おかしく、さも真実であるかのように女子に語っていた。女子はおもしろがって聞いてくれていたが、幾人かの男子に「お前は嘘つきだ!」と敵意をむき出しにされ驚いた。家で母親にそのことを話すと、母はこう言った。「あなたが面白いと思っている嘘の話、ある人には面白いかもしれないけれど、ある人にはとても不愉快なものなのよ。時と場所を選んで嘘の話をしなさい。」それ以来、氏は母の忠告に従ってきた、という話です。

このエピソード、私は素晴らしいと思います。虚言を十把一絡げにダメだと切り捨てるでなく、かといって、全面肯定するでもない。しかも、その延長線上に立派な作家が一人生まれたわけですから。


最近話題になっている、贋作曲家も、なんとか細胞の女性も、虚言のレベルがどんどん壮大になっていったその末路なのではないかと思います。小規模な室内楽・器楽曲ではなく大規模な交響曲。日本の科学雑誌ではなく世界的なNature誌。構造として同じように見えます。

彼・彼女らには、幼い頃から何かしら虚言に走る兆候があったのではないかと思います。周りの大人がしっかりと軌道修正してやっていたなら、本人の不幸や周囲の混乱を避けられていたかもしれない。ネットという装置が言論を拡大する今、以前に増して重要になってきている事柄だと思います。