大震災・原発事故から半年が経過して思うこと

2011年3月11日の東日本大震災より、半年が経過しました。

以前このブログで書いた通り、この震災により引き起こされた福島第一原発の事故は戦後最大の事件であるという認識に、今も変わりはありません。

福島から離れた大阪の地に住まう私ですら、空気中の放射線量や食品の産地が日々気に掛かるわけで、東日本の人々の心労たるやいかに。もちろん、無頓着な人・あえて考えないようにしている人も多いとは思いますが、放射性物質がその人達を素通りしてくれるわけではありません。

こと生命・身体の危機に関しては、リスクを過大評価するぐらいが適切だと私は思うんですが、ネット上の言論を見ていると、「リスクを過大評価するな」という意見が多いように思います(もちろん政府筋も含める)。

これって何なんでしょうかね。経済的なリスクと混同しているのか、それとも、人命は鴻毛より軽しとでも考えているのか。前者ならたかがカネの話と混同しないで欲しいと思いますし、後者なら言語道断です。

どこかの中学生が遊び半分で、電鉄会社やマスコミに「電車に爆弾を仕掛けた」と電話を一本入れれば、大騒ぎになり、実際に電車は止まるはずです。電車が止まれば、利用者は大きな迷惑をこうむり、電鉄会社にも大損害が生じるはず。そしてたいていの場合は単なるイタズラであるはずです。しかしそれにもかかわらず、大事を取って電車の運行は止められる。それは万が一の場合、人の命が奪われる可能性があるからでしょう。

何故にこの姿勢が、より被害発生の蓋然性が高く、被害の規模が大きい原発事故になると適用されないのか。もちろん経済的・政治的な事情はあるでしょう。私も大人、それが分からない歳ではありません。しかし、こうした生命・身体の安全に関わる問題を、政治や経済の問題に矮小化してほしくないと強く思うのです。

このブログは塾ブログですから、政治的な話をするつもりは毛頭ありません。私が原発事故に関してあれこれ書いているのは、原発事故は政治以前の・政治を超えた問題、言い換えれば、この国に住まう私たちの命の問題だと思うからです。

この問題が、反原発=左寄り、原発推進=右寄りと単純な政治問題にすり替えられるとすれば、それはとても危ないことでしょう。生命の危険は政治的な立場にかかわらず襲ってくるわけですから。


今回の原発事故で、京都大学原子炉実験所の熊取六人衆と呼ばれる先生方をご存知になった方も多いかと思います。
(ご存知でない方はこちらをどうぞ。)

彼らの意見は、世上の出世や金銭的な見返りからかけ離れたところにあります。言い換えれば、打算ではなく学問的良心からの意見です。それ故にこそ、傾聴に値するものではないでしょうか。

(一応、京大を弁護しておくと、冷遇したとはいえ、こうした異端の研究者を放逐せず内部に抱え込んだわけで、その寛容性は一定程度評価できると思います。)

福島第1原発:京都大原子炉実験所・小出裕章助教に聞く – 毎日jp(毎日新聞)


自分の息子と同じ年齢の子供が、放射線量の高い地域で今なお暮らしているという事実。あどけない笑顔を見る親の焦りはいかばかりか。想像するだけで、何とも言えない切なさに襲われます。

判断の基礎になる正確な情報、そして冷静な判断力が今ほど必要とされる時代もないのではないか。一人の親として、つくづく思うのです。


私が興味を持った報道番組もご紹介しておきます(日本語字幕付き)。時間のある方はどうぞ。

何が正確な情報なのか。そしてどう行動すべきなのか。それは個々人の判断に委ねられているとしか言いようがありません。

ヨーロッパの研究者が語る2011年8月下旬の状況
https://www.youtube.com/watch?v=wKYZDPi5CHg (2016年4月現在削除されています)

最近のドイツの報道番組
https://www.youtube.com/watch?v=VpdrvozDJJo (2016年4月現在削除されています)

2011.07.27 国の原発対応に満身の怒り – 児玉龍彦(児玉龍彦東大先端研教授の見解)

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