三浦しをん『仏果を得ず』と有川浩『阪急電車』

今週はちょっと軽い感じの小説を2冊読みました。軽くレビューをば。

1冊目は、 三浦しをんの『仏果を得ず』。

仏果を得ず
三浦しをん

仏果を得ず (双葉文庫)

この作品、数年前、大阪の某書店で新刊書として平積みになっていたのを見ていたんですが、原則として文庫本になってから読むというのが、私の読書スタイル。小説というのは、別に一刻を争って読まねばならないものではありませんしね。

先日、ジュンク堂をウロウロしていると、文庫本版『仏果を得ず』が平積みに。「やったぜ!」と独りごちながらレジへ向かいました。

この作品の題材は、他ならぬ「文楽」。浄瑠璃が小説化・映画化されるのは別段珍しいことではありませんが、文楽という芸能やその演者自体が小説になるというのは比較的稀なことです。読まいでか。

有吉佐和子の『一の糸』という作品があるんですが、こちらは芸を極めんとする男とそれを支える女の話。文楽好きにはとても面白い作品なんですが、ちょっと時代がかっているので、今時の読者にはあまりアピールしないかも。(あ、文楽好きなら読んで損はありませんよ、保証します。)

で、この三浦しをんの『仏果を得ず』なんですが、文楽という古典芸能中の古典芸能を舞台にしながらも、ストーリー展開が現代的かつライトであるため、文楽に縁のない人にも興味を持ってもらえそうな作品です。

個人的な意見ですが、演劇を「見る」のは、「読解」とよく似た作業だと思います。脚本がどんなテーマを持っていて、アクターは何を表現しようとしているのか。頭を冴え渡らせて舞台を注視しつつ行う知的な営為。って、そんな難しいことをいつも考えているわけではありませんが、基本はそうして「見る」ものだと思っています。単に「観る」ではなく「見る」。

三浦しをんが文楽をよく「見」ていることは、文章の端々から伺うことが出来ます。ちょっと長いですが、引用してみましょう。主人公の健が、舞台稽古で『女殺油地獄』の与兵衛を見ているシーンです。

本舞台では与兵衛がふてくされ、座敷の柱にもたれて立っている。懐手をし、右脚に重心をかけ、左脚を軽く曲げたその姿。健ははっとした。放蕩ぶりを両親から責められ、鬱屈をぶちまけたいようにも、ただ開き直っているだけのようにも見える全身から、青臭い若さが迸っていた。
「なんか色っぽい……?」
健はつぶやき、与兵衛から滴る色気の原因を探った。脚だ。脚の角度が、与兵衛の若さゆえの繊細さとふてぶてしさとを、絶妙に表現している。

これぞ演劇の楽しみ方だと思います。

男の色気の原因はさらに追究されてゆくんですが、塾ブログでは扱うに適さない際どい話になって行くので(笑)、ここらへんにしておきます。

ちなみに、近松の『女殺油地獄』については、以前シネマ歌舞伎に絡めて書いたことがありますので、興味のある方は下記の記事もどうぞ。

シネマ歌舞伎『女殺油地獄』と片岡仁左衛門:国語塾・宮田塾のブログ

しかし、何かに賭けている人って格好いいですよね。健大夫と三味線兎一郎のペア、もし実在すれば、贔屓にしたいなぁ。

って、10行ぐらいで終わるつもりのレビューをずいぶん書きすぎてしまった……。


2冊目は有川浩の『阪急電車』だったんですけどね。とても楽しめる作品でした。男性作家にしては、女性心理の機微の捉え方が妙に上手い。凄いな、ここまで女性心理を把握できる男性って、どんな育ち方をしてきたんだろう。

……と思っていたら、有川浩って女性作家さんだったんだ!児玉清の解説を読むまで知らんかった!「ありかわひろ」って読むんだ!

この『阪急電車』、妻が読み終わったものをもらったんですが、妻に「有川浩って女の人やねんで、知ってた?」と聞くと、妻も初耳とのこと。おいおい、解説読もうや~(笑)。

ウェルメイドな短編作品集としても楽しめますが、登場人物が微妙に重なり合いながらストーリーが織りなされるという趣向がとても新鮮です。音楽の世界でも、こういう作詞方法をとったミュージシャンがいるんですが、これはまた別の機会に。

この『阪急電車』は映画化されているので、またDVDで見てみようと思います。

阪急電車
有川浩

阪急電車 (幻冬舎文庫)