先程、音楽評論家の中村とうよう氏が、自ら命を絶ったとのニュースに接しました。私にとっては、とてもショッキングな話です。とうよう氏が自ら命を絶つなんて到底信じられません……。
音楽評論家の中村とうようさん、飛び降り自殺か – MSN産経ニュース
私事になりますが、私は一時、厚かましくも音楽評論家になりたいと考えていたことがあります(結構真剣だったのです)。「評論家なんて自分で創作・演奏できないやつが愚論を弄しているだけ」という考えがあるのは百も承知ですが、それを超えてゆく批評・評論というものが存在するのも事実でしょう。
文芸の世界でいえば、小林秀雄や江藤淳。クラシック音楽の世界でいえば、吉田秀和。もちろん彼らには創作能力も備わっていた(いる)と思いますが、その能力が批評・評論に向けられたのは、日本文化にとって幸せなことだったのではないかと思うのです。
私がメインフィールドにしたいと思っていたのは、広い意味でのポピュラー・ミュージックです。クラシック音楽に対置される、民衆による民衆のための音楽です。ロック、ジャズ、ブルース、ソウル、パンクといった欧米ポピュラー音楽だけではなく、アフリカ・アジア・南米・東欧の音楽も含み、さらには、日本の大衆音楽も含めた音楽。日本の大衆音楽については、現今の歌謡曲だけではなく、歴史的な視野から、義太夫・長唄・清元・常磐津・小唄・端唄、さらには浪曲、民謡や各種の音頭、コミックソングなどにも視野を広げる……。
そうした、ポピュラー音楽全般にわたる評論活動を繰り広げられる人材は極めて稀です。その数少ない評論家の一人、いや唯一無二の人が中村とうよう氏だったと思うのです。
莫大な量の音源に実際に触れ、深い洞察力・知識で、説得力のある議論を展開する。私も彼の導きで、どれだけ新しい音楽・素晴らしい音楽に出会ったことか。
時に過激、時に独断的に思える言論活動もあり、不興を買うことがありましたが、それもまた芸風と言いましょうか。偏屈オヤジ風なところに惹かれていた音楽ファンは少なくないと思います。
中村とうよう氏によれば、マイケル・ジャクソンは安っぽい音楽を作る堕落した黒人歌手。ラップは政治音痴が金切り声を上げる退廃した黒人音楽。私は必ずしもこの意見に与するわけではありませんが、とうよう氏がアメリカ黒人音楽にも深い造詣を持っていらっしゃったことを考えると、とても興味深い見解であります。
中村とうよう氏にどのような悩みがあったのかは、私もよく存じ上げません。しかし、自殺でこの世を去られるというのが、どうにも悲しく無念でなりません。とうよう氏らしくない、その死去を心の中にどう落ち着かせればよいのか……。勝手かもしれませんが、命の尽きるまで、音楽評論活動に邁進してもらいたかった人です。
心穏やかにとは言い難いですが、ご冥福をお祈りします。