テロリズムと都市の規模の関係

前回、大阪サミットの話を書いていて思い出したんですが、大規模テロって、その国の首都(正確には最も大規模な都市)で起こるのが常ですよね。

ここで想定しているのは、政治的または宗教的な目的によって、確信犯的に無辜の民を攻撃するテロリズムなんですが、彼らの真の目的は、自らの奉ずる信条を貶めてきた社会への報復でしょう。少数派として白眼視され、虐げられてきた怨みを晴らさでおくべきか。

ごく普通の市民からすると、そうした心情を理解することはとても困難です。もちろん私もその一人。

しかし、無辜の人々を攻撃しようとする個人または集団が一定数現れてくるのは、歴史の教えてくれるところ。他者または自己により「洗脳」された者が、偏った教義のもと社会に牙を剥くケースは後を断ちません。

そうした「洗脳」をしない・させないというのが最も効果的なんでしょうが、それは個人レベルの問題ではありません。国家レベル・国際レベルの問題。しかし、世界中でこれだけテロが起きていることを考えれば、「洗脳」への対抗は非常に困難な課題だと言わざるを得ません。

であってみれば、個人として考えねばならないのは「不可避的に発生する宗教的・政治的テロに、どうすれば巻き込まれずに済むか」ということだと思うんですよね。

その時、最も有効なのは、「その国の最も大規模な都市に住まない」ということだと思っています(東京に住んでいる方々には申し訳ないけれど)。

テロリストがいくらドグマに凝り固まっていると言っても、自分の起こすテロ行為の代償は理解しているはずです。かなりの長期にわたる収監、場合によっては死刑に処せられることもあるでしょう。自爆テロに至っては、自らの命を差し出す必要があります。

つまり、テロ行為は一生に一度だけの「晴れ舞台」。テロリストからすると、失敗は許されず、最大限「効率的」に殺傷を行い、社会を震撼せしめるべしと考えるはずです。

そして、社会を最大限震撼させようとすれば、都会、特にその国の最大の都市でテロ行為をはたらくことが最も「効果的」なはずです。マスコミを「活用」して、自らの存在を誇示するにも適していますしね。

過疎地で爆発物を破裂させてもインパクトに欠けますよね。「今日、島根県の田んぼの中でテロリストの仕掛けた爆発物が破裂しました。この爆発による死傷者はいません。」ほとんど「ほのぼのニュース」です。

最近の印象的な大規模テロリズムを振り返っても、そのほとんどが「当該国の最大都市」を舞台に選んでいます。2001年の911テロはニューヨークとワシントン、地下鉄サリン事件は東京。2015年のフランス同時多発テロ事件(130名死亡)の舞台はパリ、つい最近起きたスリランカの同時爆発事件(258名死亡)の主たる舞台は最大の都市コロンボ。イラクでも最大の爆弾テロが起きたのはバグダッド。

テロリスト達の「一生に一度の機会で最大限の効果を上げる」という気持ちを考えてみれば、それは至極当然なことです。

とすれば、「国内最大の都市に住まない」というのは、テロリズムに巻き込まれずに済む最も効果的な手段なのではないかと思う次第。そういう意味で大阪は比較的安心できる場所ではないかと考えているような私にとって、サミットを招致するなんていうのはあまり嬉しくないことなんですよね……。

加えて、各国首脳に手渡しする当塾のパンフレットも各国語で作成しないとならないし、首脳の好みを調べてお茶菓子も考えないとならないし……(笑)。

冗談はさておき、都市の規模とテロリズムの関係はもう少し議論されてもいいところだと思います。まあ、在東京のマスコミはそんなことを取り上げたくはないでしょうが。

なお、宗教的・政治的ではないテロについては、また話が違ってくるでしょう。特に、社会的に疎外された(と勘違いしている)個人が、フラストレーションを爆発させるかのようなテロを考えているんですが、こうしたテロの発生の危険性は、首都、その他の都市部、田舎、どのような場所でもそれほど変わりはないのではないかと思います。

附属池田小の小学生を狙った非道なテロ、最近だとカリタス小学校の児童を対象とした極悪なテロなどがその代表例ですが、自分の子を持ち、小学生の生徒さんを見ている立場からすると、本当に恐れねばならないのはこうした類いのテロなのではないかと。

きれい事を言うつもりはありませんが、こうした種類のテロ防止は、近視眼的に考えていても仕方がなく、おそらくは社会政策として取り組まねばならない問題なのだろうと思います。

何にせよ、安らかに穏やかに暮らせるのが一番。逆説的ですが、そのためにも、起こりうるテロリズムに普段から思いを馳せておくことも重要なのではないかと思う次第。