マタイ受難曲『憐れみたまえ、我が神よ』をひたすらに

今年に入ってからというもの、ほとんど休み無しで走り続けております。さすがに30連勤ともなると、ちょっと限界かなと。2月いっぱいはまだまだブラック企業状態なので、健康に気をつけていきたいと思います。

さて、当塾では2月から新学年扱いとなりますので、新しい生徒さんを迎えたり、その保護者様と面談をさせていただいたりという日々が続いています。もちろん、楽ではないんですが、やる気に満ち溢れた小学生の顔を見ていると、こちらもやる気が溢れてきます。

フレッシュな生徒さんに向き合っても心が動かなくなったときが、塾稼業引退の時なのかなと漠然と思うんですが、まだしばらくは私も副代表も大丈夫そうです。


話は変わりますが、J.S.バッハにマタイ受難曲(St. Matthew Passion)というオラトリオ(聖書を題材にした大規模な宗教曲)があります。全部聴くと3時間以上かかる大曲であることに加えて、キリスト教文化やドイツ語の壁があるので、バッハ好きな私にもハードルが高く感じられる曲なんですが、例外的に好んでよく聴くのは、第39曲のアリア “Erbarme dich, mein Gott” (憐れみたまえ、我が神よ) です。

Bach – Erbarme dich, mein Gott from St Matthew Passion BWV 244 | Netherlands Bach Society

崇拝しているイエス・キリストを裏切ってしまったペテロが、その罪深さに恐れおののき悔恨するという部分なんですけれども、信者でない私からすると、マタイ福音書のこのストーリー、どうも説得力に欠ける気がしてなりません。

誤解されないように先に書いておきますが、キリスト教や聖書を誹謗しているわけでは決してありません。ただ、文字で読むと、一般人からはとても飲み込みにくいストーリーである気がすると言いたいだけなんです。

ペテロは、神と崇めるイエス・キリストをあっさり3度も裏切ってしまう。イエスから「あなたは私は3度裏切るだろう」と言われて「絶対にそんなことはありません」と本心から言っていたのに……。

もちろん、神ならぬ人間の罪深さ・愚かさ・弱さを聖書は伝えたいのでしょうし、(こう言っては叱られるかもしれませんが)ドラマツルギーも、大昔と今では大違いでしょうから、何も不審を覚えるべきところではないんでしょうけどね。

で、私が言いたいのは、このなかなか飲み込みにくいストーリーが、バッハにかかると、超・超・強力な説得力を備えるということなんです。

何と言えばいいでしょうか、この魂の奥深い部分に訴えかけてくるような感じ。人間が深い罪の意識と悔恨の情に苛まれるというのはこういうことだと、ありありと眼前に示されるような感じ。こうした感覚を覚えるのは、多分、信じる宗教の有無と関係ないのではないでしょうか。宗教がベースにあるけれど、宗教を超えていると言うか。

キリスト教徒でもないのに、無性に『憐れみたまえ、我が神よ』の部分を聴きたくなる日があります。そんな日は何回も何回もこの部分ばかりリピートします。

そして、己の人間としての弱さに向き合い、真摯に反省する……なんて言えれば格好いいんですが、そんな高尚な人間ではございません(笑)。ただただバッハの強烈な才能に惚れ直すぐらいが関の山ですね。


先日も深夜にずっと作業をしていたんですが、その際、上掲Youtubeの『憐れみたまえ、我が神よ』をひたすらリピートしておりました。隣の部屋で副代表が寝ていたので、ちょっとボリュームは絞り気味でしたが。

次の朝。

「なんか昨日変わった夢を見たわ〜。」

「どんな夢?」

「なんか業務スーパー(とても安い庶民的なスーパーです)に行ってるねんけど、すっごく高いところに、商品が置いてあるねん。とんでもなく高いところで、誰の手も届きそうもないところ。でもすごくおいしい品物ということだけは分かってたんで、みんなに食べさせてあげたいなと思って、ぴょんぴょん飛び跳ねているっていう夢。店員さんも口々にあれは素晴らしい商品だって話し合ってるねん。」

「それ、マタイ受難曲の新解釈やんか。」

「は???」

妙に直感のするどい副代表なのでした(笑)。