勉強とは言葉を学ぶこと

最近、もう少し本格的に英語の勉強をしたいと思うようになっておりまして、書店でチョロチョロと英語の書籍を漁ることが増えてきました。やっぱり英語の勉強って最高に面白い。

誰が言っていたかは思い出せないんですが、「言葉は人類最高のおもちゃ」というフレーズ、私には強烈な共感を呼び起こさせる表現です。これ以上に面白い遊び道具があろうか。このおもちゃがあれば一生退屈しない。

私などは、この「遊び道具」で仕事までさせていただいているわけで、幸せな人間だと思っておりますが、言葉というおもちゃ箱はとてつもなく大きく、すべてを見渡すわけにはいきません。私は日本語や英語というフィールドを中心に遊んでいるだけですが、それでも一生かかっても遊び尽くせない広大な沃野にいる気がします。

暇になったら、ラテン語というフィールドにも足を踏み入れてみたいと考えておりまして、習ってみたい先生、使ってみたい教科書も心中には決まっているんですが、いつになることやら。現実世界では全く役に立たない語学に没頭するなんて、もう最高の贅沢だと思います。

話は少々それてしまいましたが、当塾は「国語」の専門的な指導をご希望になって、門を叩いて下さる生徒さんや保護者様が多い塾です。もちろん、そのご期待に沿うべく日夜頑張っているわけですが、私の正直な気持ちを言えば、「国語」ではなくて、「言葉」を指導させていただいている感覚なんですよね。

いつも思うんですが、小中高の「勉強(特に国語・数学・理科・社会・英語)」って、結局は「言葉」を学ぶことです。

「国語」は言うまでもなく「日本語」そのものを扱いますし、「社会」は歴史の流れや社会システムという「物語」を学ぶ科目です。数学も数学的な思考パターンを「数学的な言葉」で扱う教科、理科も自然科学的な思考パターンを「自然科学的言語」で扱う教科です。

体を動かすことも一種の言葉(ボディーランゲージ)だと捉えれば、体育も「身体的言葉」の習得を目指す教科と言えますし、音楽・美術・技術家庭も同様の考え方ができるでしょう。

結局、すべての「勉強」は「言葉」を学ぶことに他なりません。

そういう考えからすると、「国語塾」というのは、ややミスリーディングなネーミングだと思わなくもないんですが、「国語・数学・理科・社会・英語の根本をなすいわゆる『言語操作能力』を育成する塾」なんてネーミングもくどすぎますし。仮にそう名付けたとしても、結局は「国語塾」って略されるのがオチでしょうね(笑)。

まあ、名より実ですね。生徒さんには「国語」というよりも、広い意味で「言葉」「言語操作能力」を鍛えてもらえれば。


大学受験国語の対策をさせてもらった生徒さんから、「英文解釈」の得点が明らかに上がったという声を頂いたりすると(結構あります)、本当に嬉しいんですよね。

だって「現代文読解」も「英文読解」も、窓口(日本語・英語)が違うだけで、根本的には全く同じ作業をしているわけですから。当方としては、「こちらの伝えようとしたことをちゃんと受け止めてくれたんだな」としみじみ嬉しくなります。

最近パラパラと眺めていた英文解釈の参考書に、「英文解釈能力と国語解釈能力は全くパラレルであり、国語解釈能力がなければ英文解釈はおぼつかない」という趣旨の話が、実例とともに書かれていて、大変説得力がありました。

英語指導者の側からもこちらからと同じように見えているんだな、我が意を得たりと膝を打ちましたが、この話はまた別の機会にでも。