ボブ・ディランの孤独と偏屈

少し前、ボブ・ディランのノーベル賞受賞の件を書きましたが、ディラン、どうやら授賞式には出席しないようですね。先約があるというのが理由のようですが、世間には賛否両論があるようで。

個人的には、「先約がある」というのは、至極真っ当な理由のように思えます。ノーベル賞だろうが、ライブハウスでのライブだろうが、友人との会食だろうが、何でも先着順にしてんねん、すまんな、という姿勢はとても公平ですよね。権威があるからとか、儲かるからとか、そんなん知らんやん。

ディランぐらいになると、権威も金もありすぎて、(音楽を除いて)もう何もかもがアホらしくなってるんじゃないでしょうか。権威に従わない俺ってカッコいいとか、金銭になびかない俺ってスゴイぜ、みたいな幼稚なナルシシズムではなく、ただただ何もかもが面倒臭くなっていて、ほとんどニヒリズムの域に達しているのではないか。

少し前の新聞にフォーク歌手の友部正人氏のインタビューが載っていました。友部氏はディランに憧れて歌の道に入った方だけあって、さすがのディラン評。下記は毎日新聞11月8日夕刊より引用。括弧内はブログ筆者によります。

(ボブ・ディランは)ものすごく強い人だと思うけど、失恋、失意、後悔を重ねて年取った孤独な感じ。友達もいないんじゃないかな。歌手仲間に嫌われてるけど、そういう自分でいたいんだろうね。だから、自分のペースで歌を続けられたんだろうし。

その通りだと思います。ディランを受け入れられるか否かは、畢竟「偏屈ジジイ」を受け入れられるかどうかということだと思うんですよね。

私はそこまで偏屈ジジイになるつもりはありませんけれど、孤独に強い人であらねばとは思っています。