大阪の中心で、コロナ禍中の分断をさけぶ

少し古くさいタイトルですかね(笑)。『世界の中心で、愛をさけぶ』は、結構いい小説でしたけれど。


なんだか本当に難しい時代になったなと思います。分断の時代とでも申しますか……。

新型コロナに関しては、感染防止を最大限防止するために国民の行動を制限せよというグループと、感染防止よりむしろ経済活動を重視せよというグループ。ワクチン接種については、推進派と懐疑派。オリンピックを開催するなんてもってのほかだという人々もいれば、是非開催すべきだという人々もいます。

アメリカ合衆国でも、トランプ・バイデンの時代になって、共和党支持者・民主党支持者間の分断は、今まで以上に激しくなってきたように見えます。BLMに見られるように人種間の軋轢も同様(もちろん人種問題は伏流水のように常に米国の底流に存在し続けている問題だと思いますが)。

今までも一つの問題について侃侃諤諤(かんかんがくがく)たる議論が巻き起こることは珍しくはありませんでしたが、それが異常なほど「硬直した党派性」を帯びてきてしまっているように感じるんですよね、最近は。

我が党派に属する者は無批判に受け入れ、我が党派にあらざる者はこれまた無思慮に拒絶する。柔軟性に著しく欠ける状況です。

今までよりこの傾向が強まってきているのは、SNSの影響が大きいでしょう。いわゆる「エコーチェンバー効果」(閉鎖的空間内でのコミュニケーションを繰り返すことによって、特定の信念が増幅または強化されてしまう効果)というやつです。

これ、本当にマズいと思うんですよね。議論があるのはもちろん構いません。民主主義の基本ですから。しかし、歩み寄ることのない対立・分断が続くのは社会的に大きな損失ですよね。


大阪市民なら、なぜかコロナ禍の最中に行われた「大阪都構想」の住民投票をお覚えかと思いますが、あれなんかもその最たる例だったと思います。正直に言えば、市民府民の福利に適うなら制度なんてどっちだって構いません。大切なのは、住民コンセンサスの形成です。

市民府民の7割なり8割なりが「賛成」または「反対」というように差がついていれば、両派の分断はそのうち解消されるはず。不満を覚える少数側も、多数の市民府民の意見は無視できないわけですから。

でも、大阪市民が参加した住民投票は2回とも「接戦」で、賛成・反対の間には僅差しかありませんでした。なんでそんな状況で「選挙」という名の「闘争」に持ち込むのか。どちらが勝っても諦められないレベルの差なので、遺恨を残しまくり、分断を固定しまくり、ということになってしまいます。もちろん分断された住民はそのまま放置で、何のケアもありません。すごく子供っぽい政治手法で泣けてきます。

コロナ禍中に大金を投じて住民投票を実施すること自体不可解なことでしたが、私がなによりも疑問に思うのは、大阪市民を「分断」しておいてそのまま平気でいるということなんですよね。

正直に言えば、新型コロナ問題なんて誰もその帰趨は分からないわけです。専門家でも言うことがころころ変わっているぐらいですから(それは科学者のとしての良心だと私は思います)。だから、府政がなっとらん、市政がダメだなどとは思っていません。多分誰がやっても同じような結果でしょう。

しかし、大阪市民府民の大多数はそうは思っていない気がします。「今の市政・府政だから、これだけ新型コロナウイルスが蔓延した」「今の市政・府政だから、新型コロナはこのレベルで収まっている」という風に、分断を引きずったまま、というか、より分断の亀裂を深めつつあるというのが2021年5月の大阪の現状かと。

まあ一市民としては、分断に巻き込まれず、党派性にからめ捕られることなく、冷静に状況を判断しながら頑張るしかないなと考えております。