文章の匂いと個性

仕事柄、色々な文章に目を通しているせいか、文章の「匂い」をかぎ取る力はかなり強い方なんじゃないかと自負しています。そりゃ、これだけ来る日も来る日も入試問題や出題文に触れていれば、そうなるのも当然ですが。

例えば、入試に頻出の小説家・評論家などは、冒頭の2〜3行を読めば、かなりの確率で当てることができます。この導入の仕方は鷲田清一だな、この改行のムードはあさのあつこだな、という感じ。もちろんどれも初見の文章です。

先日は冒頭の10文字程度で「内田樹っぽい文章だな」と思い、出典を見るとビンゴ。だんだん占い師レベルになってきました(笑)。

別に自慢しているわけではありません。それぐらい、優れた文章家の文章には「匂い」が刻印されているということを言いたいわけです。私はそれを職業的に感知する能力が高まっているだけの話です。

どこでその「匂い」を察知しているのかは、私にも言語化しにくいんですが、主語と述語の距離、文末の助詞、句読点の息づかい、漢字とひらがなの混合率、改行のテンポ、などから感知しているんでしょうね。

中学入試に頻出の作家で言えば、日高敏隆、外山滋比古、あさのあつこ、伊集院静、重松清、養老孟司、長田弘、鷲田清一、内田樹 といった方々ですね。どの方の文章も強い「匂い」を放っています。

正直に言えば、上記の中には素晴らしいと思う作家もいれば、こんなの仕事じゃなきゃ読まねえよという作家もいるんですが、文章の中に個性が刻印されていることは否定できません。

個人的には、個性を伸ばそうなんていうのは馬鹿げた話だと思っています。上記の方々のように、否応なく現れてしまう、隠そうとしても隠しきれないものがある、それが「個性」でしょう。