「長雨」「眺め」の掛詞

本当によく雨が降りますね。9月の秋雨には風情があるとはいえ、こう毎日続くとウンザリです。

ちょっと古語の話をしましょう。

古文を読んでいるとよく出てくる「長雨」という単語ですが、発音は「ながめ」。「ながあめ」の転ですね。意味は簡単、「長く降り続く雨」のことです。

受験生に覚えておいて欲しいのは、和歌でこの語が用いられるときは、ほぼ間違いなく「眺め」と掛けられている、つまり「長雨」「眺め」が掛詞になっているという点です。きちんと勉強している受験生には、あまりにも常識的な話なので書くのが申し訳ないぐらいの話ですね。

ついでなので、もう少し掘り下げておきましょう。現代語で「眺める」というと、「見渡す・遠くを見やる」というぐらいの意味ですが、古文でいう「眺む」は「物思いに沈んでぼんやりと見やる」という意味を持っています。

「視線をどこかにやっている」という共通点はあるものの、古語の場合はそれが従たる動作・背景的な動作になっていて、「物思いに沈む」という方が主たる動作になっていると考えてもらうとよいでしょう。

そんなわけで、受験生は「眺む=物思いに耽る」と覚えることになるんですが、ここまで説明すると、「長雨」と「眺め」が掛詞になりやすいということはご理解いただけるでしょう。

長く降り続く雨、ぼんやり外を眺めては物思いに沈む……なんて詩的な情景が、「ながめ」の一言で表せるわけですね。この表現、あまりに使われすぎてちょっとクリシェ(常套句)な気もしますが、そこは和歌・古文。誰も常套表現であることを気にはしません。むしろ、そうした表現を活用して鮮烈なイメージを持つ和歌を作る方がはるかに重要。

で、有名な小野小町の和歌を思い起こして下さい。

花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に

和歌大意「花の色はすっかり褪せてしまったわ。むなしく日々を過ごし、長雨をぼんやり見ながら、物思いに耽っている間に。」

表面的には、花が褪色してゆくことを嘆いているんですが、本心は、大変な美人と言われた自らの美貌が衰えてゆくことを嘆いているわけです。

それを先程述べた「ながめ」の掛詞が補強する形になっていて、とても上手い和歌だと思います。実は「ふる」も「経る」と「降る」の掛詞になっていて、いかにも古今集らしい作品。

この歌、知的な美女が詠んでいると考えると(実際に小町はそうだったでしょう)、たまらなく格好良く感じられるんですよね。嗚呼、私が平安時代にいたなら、きっと小町様の良い話し相手になって差し上げられたであろうに……、とかなり妄想が入ってきたので、今日はこの辺りで。

しかし、ホントに早くこの長雨終わってくれませんかね。多忙な現代人たる私には、「眺むる」ヒマがございません……。