総理大臣の病気

忙しい日々が続く8月もそろそろ終了。書きたいことは山ほどあるので、もう少しブログにも時間を取りたいんですが、なかなかそうも参りません。

さて、昨日一番のビッグニュースは安倍首相の辞任表明でしょう。このブログでは、党派性のある政治の話はしていませんが、少し根本的な話を。

そもそも、政治家という存在は、「余人をもって代え難い」ということが原理的にありえないと思うんですよね(安倍首相本人の資質を云々しているわけではありません)。

政治とは結局、社会に渦巻く利害関係を調整し妥協案を探す一連のプロセスに他なりませんが、これは一つの「技術」、つまり、(頑張れば)誰もがコピーできる手法です。言い換えれば、芸術や学芸の場で時折見られるような「天才性」の逆概念。一個人の天才性の発露なんてものは、政治の場ではむしろ危険だと言ってもいいでしょう。様々な利害を普通に調整できさえすれば事足りる。

それ故、頭が切れすぎる天才的な人は政治には向いていません。かといって、利害関係調整ができないレベルの人も、これまた政治の場には向きませんが。結局、政治家を選ぶ国民側としては、利害調整という「技術」を身に付けており、真面目に働いてくれる人を選べばいいだけの話だと思っています。

そこにカリスマ的というか、ヒロイックというか、そうした政治家像はありません。この21世紀に、そういう政治家を求め、画期的な政治と社会の大改革を希望するのは、(言葉は悪いですが)非常に幼稚な姿勢だと思います。


そうだとすれば、総理大臣を初めとする政治の要路にある人達の健康状況は、国民皆に知らされるべき情報だと言えます。職務に耐えられそうもないなら、さっさと辞めてもらい、「余人をもって代える」のが国民の利益にかなうでしょう。

ここ数日前から首相の健康状況がマスコミで取り上げられていましたが、ある芸能人が「一国の総理大臣の健康状況は最高機密であるべきなのに、なぜ万人に知らしめる必要があるのか」と憤っていました。私からすると全く意味が分かりません。その人の健康状況がわからないでどうやって仕事(しかもかなり重要な仕事)を任せるというんでしょうか。

総理大臣の健康状況を国家の最高機密だと考える人は、思うに、「人格的にも能力的にも特別に卓越した指導者が存在して、その人が全国民を護ってくれる」と心のどこかで考えているんじゃないでしょうか。でも、そんな考えは甘え・幻想の類いでしょう。無欠の指導者なんて世界中どこを探してもいやしません。


指導者の健康状況をひた隠しにしたり、虚偽の情報を流したりするのは、独裁国家の得意技です。いったん指導者の健康状況が芳しくないことが知れてしまうと、ここぞとばかり序列ナンバー2以降のメンバーがうごめきだし、ナンバー1の首を刈る。いや、表現が生々しすぎますか。クーデター・謀反が起こる、ぐらいにしておきましょうか。

そうした状況下での一国の指導者の健康状態については、虚々実々のやりとりがなされることもご理解いただけるでしょう。国民を欺いたり、ナンバー2以降の権力者を牽制したり、諸外国を翻弄したり。どこかの国の将軍様も、健康状況・生死状況はベールの向こうに隠されていますよね。

そこで頼りになるのが「医学」。一般国民の目は欺けても、医学のプロの目はそう簡単に欺けない。私が昨日思い出していたのは、次の書籍です。

小長谷正明 / ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足 神経内科からみた20世紀 (中公新書)

ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足 神経内科からみた20世紀 (中公新書)
随分前に読んだ本で現物が手元にないので、紹介文を引用しておきます。

二〇世紀は戦争の世紀であり、一国の命運はしばしば独裁者の手に委ねられた。だが独裁者の多くが晩年「神経の病」に冒されて指導力を発揮できず、国民を絶望的状況へ導いたことはあまり知られていない。彼らを襲った疾患とはいかなるものだったのか。政治的指導者から作曲家、大リーガーまで、多彩な著名人を取り上げ、貴重な映像と信頼に足る文献をもとにその病状を診断する。神経内科の専門医がエピソード豊かに綴る二〇世紀史話。

ヒトラーと毛沢東がタイトルに挙げられているのは、偶然ではありません。まさに先程述べた「独裁国家」のリーダー達です。

歴史と医学が交錯する場面って、(医学史を除けば)一般人にはなかなか想像がつきませんが、そのあたりを活写している作品です。一個人の病気が、単なる病気にとどまらず、国家・国民みんなを巻き込んでゆくという状況は、やっぱり恐ろしいですよね。

そう考えてみると、指導者の病状が、詳細にではなくともある程度明らかにされる我が国は、まだ比較的「健康な」国と言えるんでしょう。

悪い健康状況を今一番隠したい人は、次期首相を狙う面々に違いありませんね(笑)。