「自然災害追悼祈念館」を設けるというのはどうだろうか

集中豪雨や台風21号のほとぼりも冷めやらぬうちに、北海道では大型地震。方丈記ではないですが、人間とはそうした自然災害に翻弄されて生きていくものだと達観するしかないのかもしれません。

Twitterなどには、「今こそ国家鎮護の為に大仏を建立せよ」という意見があって、少し不謹慎ながら笑ってしまうと同時に(聖武天皇かよ)、あながち悪い考えではないとも思ったり。少なくとも一過性のオリンピックよりは、国民の税金を投じる価値がある気はします。

もちろん、日本国憲法は政教分離を定めていますから、国費による大仏建立が不可能なのは百も承知ですが、オリンピックよりは国民の心を慰撫してくれるものだという気がするんですよね。


以前、息子と長崎に行った際、原爆資料館を訪れたことがあります。私も初めての訪問だったんですが、本当に興味深い展示ばかりでした。原爆とはどのようなものであるか、大量虐殺を目的とする爆弾を落とされるということはどういうことであるか、そうした事柄を深く立体的に学べる場所で、思いの外長時間滞在してしまったのを覚えています。

私がとりわけ胸打たれたのは、「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」という施設。原爆資料館に併設されているんですが、学習を目的とする資料館とはうってかわって、静謐な祈りのための空間となっています。

Wikipediaから建物についての説明を引用します。

静寂、光、水を要所に生かした地下2階建。地下を活用することで、追悼施設としての静寂な空間を保ち、爆心地周辺の景観を建築物で遮蔽しないようにした。原爆資料館は長崎原爆の学習施設という性格上、解説音声や映像などが発する音があふれているが、同館に入館すると雰囲気は一転、静かな祈りの空間となる。

館内のいたるところに水盤を配置し、原子爆弾による灼熱の中で亡くなった犠牲者を悼む。建物の地上部は、黒御影石を張った直径29メートルの水盤と強化ガラスの構造物からなる。水盤の底には約7万個(1945年末までの推計死没者数と同一)の光ファイバーを埋め込んでいる。夕暮れになると点灯し、水面に幻想的な雰囲気を醸し出す。地下2階にある追悼空間は林立する高さ9メートルのガラス柱と、ガラス越しに地上から入り込む光が荘厳な印象を与える。

国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館 – Wikipedia より引用

穏やかに降り注ぐ太陽の光。背の高い硝子の柱。その二つが相まって、爆心地から天へと伸びる階段を見つめているような気にさせられるんですよね。ここでは幼かった息子も会話を止め、二人で黙って歩を進めた覚えがあります。

私が感動したのは、宗教色がないのに、人の死・人の人生を深く思う祈りへと誰もが自然に誘われるという点です。私自身は特別な宗教心を持ってはいませんが、穏やかな光に満ちた静けさのなかで、自然に(本当に自然に)、はかなくも落命された人々の苦しみや無念に思いを致すよう導かれました。

逆説的かもしれませんが、戦争や原爆の醜さを声高に訴えるよりも、はるかに大量虐殺の非道・人間の愚かしさが心に染み入る気がします。もし長崎に出向かれることがあれば、是非。


これだけ自然災害が多い国ですから(大仏はさすがに行きすぎとしても)、国が主体となって、国民皆が納得できる、無宗教の災害犠牲者慰霊施設・静かな祈りの空間を設けるのは悪い話ではない気がします。

もちろん、個別の災害毎に小規模な施設や慰霊塔を築くことを否定するわけではありません。ここまで津波が来たんだぞ、こんな風に施設が倒壊しただぞ、といった教育的効果も期待できますし、近しい人を失った方々の心を慰撫するには「その場」が大切でしょうから。

でも、自然災害によって亡くなられた方々への、日本共通の祈りの空間があってもよいという気持ちは、先の「追悼平和祈念館」を訪れて以来、ずっと私の中にあります。

よく考えてみると、オリンピックも一種の宗教ですよね。死んでも構わないからメダルを取りたい・取らせたいって、いい意味でも悪い意味でも狂信者です。オリンピックは「スポーツ」とか「経済的利益」を神として崇める宗教だ、なんて言うと怒られそうですけれど。

そうだとしたら、「自然災害追悼祈念館」を設ける方がこの国には合うと思うんだけどなあ。まあ、儲からない話なので、政治家や官僚は全く興味を示さない話でしょうが……。