春休み期間が終了しました。仕事自体は楽しくさせていただいているんですが、喉が……。一日に8-9時間喋りっぱなしのせいか、喉がもう限界です。何と言うのか、声帯が筋肉痛みたいな感じ。通常期になると何ともなくなるので悪い病気ではないと思いますが。声帯って筋トレできるんでしょうかね。いや、授業自体が筋トレなのかも。とにかく、授業が休みの日はもう何も話したくない(笑)。
そういえば、今年も健康診断に行ってきました。国民健康保険が提供してくれる無料の分ですけれど。3月初頭になんとか健康診断そのものの時間は取れたんですが、診断結果を病院に伺いに行く時間が取れず、しばらく放置状態に。ようやく時間が取れたので、ドキドキしながら病院に行きましたが、結果は昨年同様、悪いところ皆無。ホッ。
死ぬときは死ぬし、生きるときは生きる。そうとしか言いようがないんですが、生きている間は命を充実させないと、とも思っています。健康に楽しく生きる。好きな人たちと仲良く生きる。
小学生の頃だったでしょうか、テレビでいわゆる「ポックリ寺」が紹介されているのを見たことがあります。取材に答えているおばあさん達曰く、「ポックリ死ぬのが夢だ」「ポックリ逝けたら幸せだ」「ここにお参りしたらポックリ死ねると聞いて遠路はるばるやってきた」。
その時、私は祖父や祖母とテレビを見ていたんですが、何とも言えない嫌な気持ちになったことを覚えています。この参詣者たちにも孫や子どもがいるだろう。それなのに「死にたい死にたい」って何なのか。そんなことを聞いた子や孫はどれだけ悲しくて辛い気持ちになると思うのか。家族や周りの人への冒涜じゃないか。もしかすると、家族と仲が悪いのかな。それだったらテレビでそんなことを公言するのは、すごく下品じゃないか。
もちろん、幼い子どもでしたので、上記のように言語化することは出来ませんでしたが、とにかく違和感を覚え、気分が悪かったことを記憶しています。取材に応じているおばあさんたちもどこか下卑ていて、みすぼらしく見えてくる。好きな祖父や祖母と一緒にテレビを見ていたことが、その気持ちを増幅させていたのかもしれません。
しかし、今になってみると、このおばあさんたちの気持ちがよく分かります。
「ポックリ死ぬ」という表現は「死ぬ」という部分に重きがあるのではなく、「ポックリ」という箇所にポイントがある。つまり、命がいつか果てることは避けられないことであるが、その最期の時までは命を充実させたい。寝たきりになったり、何も分からぬ痴呆的な状態に陥ったりすることなく、命尽きるまで愛する人たちに迷惑を掛けず、生を謳歌したい。
このおばあさん達の願っていた境地は、おそらくそんなところなのだろうと思います。いつか死ぬなら思いっきり楽しもうぜ。死の直前まで、否、1秒前までこの命を余すところなく味わい尽くそうぜ。このおばあさん達がロッカーなら、そう表現していたでしょうか。
いずれにせよ、死の礼賛ではなく、生への讃歌だったことは間違いないでしょう。そして、それならば私も大いに同感です。さすがにポックリ寺に参詣しようとまでは思いませんけれど(笑)。
一言多いかもしれませんが、死に対する態度って、どうも女性の方が腹が据わっている気がしてなりません。やっぱり出産という難事業を経験した人が多いからでしょうか。おっさん&おじいさん連中はどうもダメですね……。
当塾も来期は「ポックリ講座」を開いて熟年〜老年層をお迎えしようかと計画しています(ウソです)。