先日、村上春樹『騎士団長殺し』第1部と第2部を読了しました。ちょっとしたきっかけから読み始めたんですが、凄まじい勢いでストーリーに引き込まれてしまいました。ページを繰る手がおぼつかないぐらいに、話の展開を知りたくてたまらない。あまりに没頭していたので、今は読み終えてしまったことが寂しくて仕方がありません。村上春樹氏は、本当に素晴らしいストーリーテラーだと思います。
私、へそ曲がりなもので、ベストセラー作家の作品を素直に読む気にはなかなかなれません。決して村上春樹氏が嫌いというわけではないんですが(むしろ価値観において大いに共感を覚えている)、あまり文学や小説に興味の無さそうな人たちが年に一度だけ「ノーベル文学賞云々」と騒ぎ立てる事や、ハルキストを名乗る人たちのムードがどうも受け入れがたかったんですよね。
もちろん、それは村上春樹氏の諸作品の価値をなんら低めるものではないんですが、どうも食指が動かなかったというのが正直なところでした。
妻は昔から結構な数の村上作品に触れていて、妻から主要作品については大まかなストーリーを聞いてはいました。ただ、彼の作品は、大まかなストーリーを聞いてそれで事足れりというような作品ではありません(というか優れた小説というものは、他者による要約や説明を拒絶するものだと思う)。まあ今のところ読んでいなくても特に困ることもないので、何か機会があれば読みましょうかね、というスタンスでいたんですよね。
で、今月の上旬のことなんですが、最近出版された『騎士団長殺し』の第1部を手に取る機会がありました。家の近所にあるカフェは「まちライブラリー」(詳しくはこちら)を併設しているんですが、私が座った席のすぐそばの書架を見ると、珍しく新刊書が並んでいます(原則として寄贈された書物が置かれているライブラリーなので新刊書を見るのは珍しい)。それがこの『騎士団長殺し』第1部と第2部なのでした。
何気なく手に取り、適当に開いたページには、驚くばかりの記述がありました。恥ずかしながら私は閉所恐怖症なんですが、同一の恐怖症を持つ主人公の心の動きが縷々と記されていたんです。私はこの恐怖症の心理をこれほど的確に記した小説を読んだことがありません。村上氏自身が閉所恐怖症であるならば、多いに共感を覚えますし、そうでないなら、この恐怖症をここまで精密に描ける筆力に脱帽です。
胸が締めつけられるような、手足から力が抜けてゆくような気持ちを彼の文章によって味わわされながらも、私はそのページから目を離すことができませんでした。この小説は読まねばならない、この小説はわたしによって読まれねばならない、という気がして、その場で書籍の借出手続きを取りました。
この記事は書評として書いているのではなく、個人的な書籍との出会い・邂逅についての記事として書いていますので、あえてストーリーにはふれません。ただ、大筋を言うならば、イデアは時間と空間を超えて確実に存在するものだ(時にそれは勇気をもたらし、時にそれは血をもって乗り越えねばならない)、人間はメタファーに絡め捕られてはならない、そして人間は常に未完成なものである、といったところでしょうか。
いや、何を言っているか分からないですよね。言い訳のようですが、私のせいではありません。先ほども申し上げたように、優れた小説は解説や要約を拒絶するものです。
大げさかもしれませんが、「今」の村上作品を「今」の私が読むように、なにか見えないものの導きがあったような気すらしています。今までの話題作ではなく、この『騎士団長殺し』で村上春樹氏の小説世界に出会うということに、何らかの意味がある、そう、セレンディピティの一種かもしれない。出会うべき時期に出会ったストーリーテラーと物語。むしろ、今まで本格的に出会わなくて正解だったのかもしれない。
この『騎士団長殺し』、私に何か「深いもの」を残して行った気がします。「大きなもの」でもなく、「高いもの」でもなく、「深いもの」。1000ページ超の作品ですので、再読することはあまり無いでしょうが、間違いなく私にとって重要な物語になりました。
なお、濃厚な性的描写も多いので、小中学生向けの作品ではありません。一応塾ブログなので、念のため。
『騎士団長殺し』の話、もう少し続きます。
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