ある種の物語には、それを読むべき空間・読むべき時間が厳然と存在する

前回「儀式を必要とする音楽があるならば、儀式を必要とする物語もある」の続きです。

9月のとある休日、家族で少し遠出しました。大阪から100km強の場所です。ドライバーはもちろん私。

目的地で本を読むべく、村上春樹『騎士団長殺し : 第2部 遷ろうメタファー編』とiPadを持参しました。仕事のない日、のんびりと本を読むのはこの上もない歓びです。ましてそれが郊外の美しい場所とあれば。

昼過ぎに到着した目的地は、暑くも寒くもなくちょうどよい気温。真っ青な空と木々に包まれて、『騎士団長殺し : 第2部 遷ろうメタファー編』の後半に取り組みます。

主人公、完璧主義者の隣人、謎めいた美少女、そして騎士団長。複数の絵画を軸として奇妙な登場人物たちが繰り広げる世界に没頭したんですが、その中で出会ったのが、前回ご紹介した「優れた音楽を聴くには、聴くべき様式というものがある。聴くべき姿勢というものがある。」という言葉。

音楽がそうであるならば、物語にも同様に読むべき様式や姿勢があって当然だということに思いが至ります。そして自分の周りを見回すと、真っ青な空、緑の木々、書籍の白いページ。かすかに聞こえる鳥の鳴き声。かぐわしい風の香り。寝転がるのに最適なベンチ。

ああ、『騎士団長殺し』を読むために、自分はこの舞台を知らず知らずに用意していたんだな。そしてこの重要な再生の物語をここで読むことになっていたんだな……。大げさかもしれませんが、自然にそういう気がしました。

青と緑と白と。活字に注目していても、背景として空の青と木々の緑が目に映っている。この時、ページの白は光を反射する白でなくてはならない。自ら発光する白であってはならない。自ら発する光は主張が強すぎるから。したがって、iPadの電子書籍ではなく紙の書籍でなくてはならない。

最終場面、主人公が暗く狭い再生の道をたどるシーンは、閉所恐怖症の私にとって読むのが辛い部分でしたが、この「舞台」のおかげで何か「深いもの」が心に残りました。

ある種の物語には、それを読むべき空間・読むべき時間が厳然と存在する。そして、空間と時間に縛られて生きる人間であっても、物語を読むべき空間・時間は自らの力で勝ち取ることができる(場合もある)。そんなことを思いながら全編を読み終えました。

とても幸せな休日でした。


そうそう、この小説を読んで、自分がなぜ自動車やその運転に全く興味が持てないのか、そしてなぜ自動車を所有する気になれないのかがはっきりと分かりました。なぜモーターサイクルにほとんど恋愛といってよいレベルの愛情を抱いてしまうのかも。

言語化できなかった理由が、『騎士団長殺し』を媒介として、はっきりと言語化される。そんな副産物まで得たドライブの帰途、渋滞する高速道路でハンドルを握りながら、村上春樹氏の紡いだ物語を反芻しました。家族は全員すやすや眠っていましたしね。

根拠は示せないけれど、何か会うべき人やストーリーに会ったという確信に至って、わが家に帰還。こんな物語に会うのは久々のことでした。

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