スフィアン・スティーブンス『キャリー・アンド・ローウェル』

仕事が忙しく、新しい音楽や文学や映画に触れる時間がなかなか取れないのが悩みです。

新しいことも勉強したいし、息子の勉強も見てやりたいし、妻とゆっくりカフェで過ごしたいし、ふらっとどこかに一人で出かけたいし……って、全部を望むのは贅沢すぎますが、「生命の燃焼を感じさせる作品」に触れるぐらいは許されてもいいかと。


最近、私が胸を打たれたのは、2015年3月末に発表された、Sufjan Stevens (スフィアン・スティーブンス)の最新作。『Carrie & Lowell』(キャリー・アンド・ローウェル)と題されたこのアルバム、血がドクドクと流れ出ています。心の傷から。血が「流れている」のではなく、血が「流れ出している」のです。とめどなく。

Carrie & Lowell
Sufjan Stevens

Carrie & Lowell

悲しみという一語では表し得ない大きく複雑な感情。歌うスフィアンも、リスナーも、その感情に巻き込まれ、翻弄されるばかりです。しかし、翻弄されることが、魂の浄化につながっている。

大げさなことを言うと思われるかも知れませんね。作品の背景を紹介しましょう。

スフィアンは1975年生まれの米国人フォークシンガー。恥ずかしながら、この作品を聴くまで、私は彼のことを知りませんでした。

スフィアンには母親(キャリー)がいましたが、彼の幼い頃に統合失調症を病み、彼を置き去りにして失踪してしまいます。海外のレビュー記事を見ると、彼が1歳の頃からそうした失踪が繰り返されたようで、このアルバム内にも、”when I was three, three maybe four, she left us at that video store.” (僕が3歳だった頃、いや4歳の頃だったか、母は僕たちをビデオストアに置き去りにしていった) という歌詞があります。

そんな生い立ちが彼の人生に影を落としていると思うんですが、母キャリーと再婚したローウェル(スフィアンにとっては継父ということになる)が人格者で、彼の人生に大きな希望や影響を与えたらしい。ローウェルは、今も彼の音楽活動をバックアップしている(彼のレーベルを運営している)とのことなので、スフィアンにとって、本当に心を許せる人なんでしょう。

実母キャリーは、薬物中毒・統合失調症から通常の生活を営むことは難しかったため、施設に収容されるなどして暮らしていたようですが、2012年、胃癌によって死の床につきます。この疎遠だった実母の死を、スフィアンは継父ローウェルと共に看取ります。その経験を主題とした詩と曲、それがこのアルバム『Carrie & Lowell』(キャリー・アンド・ローウェル)です。


近しい人を看取るということ。経験のある人にはお分かり頂けると思うんですが、それは筆舌に尽くしがたい体験です。今ともにあるこの大切な人が、そう遠くない日に、この世を去る。今、この命が燃え尽きようとしている。どれだけすがりついても、その流れを止めることはかなわない。

そして、喪失。喪失なんて軽い言葉では言い表され得ない、重苦しい感情。私は父を喪った後、自分の気持ちをどう表現すればよいのか分かりませんでした。表現する必要など無いではないかと思われるかもしれませんが、それは違います。何とかして言葉として落ち着けようという心中の試みを抑えることができない。片肺を喪って呼吸している感じ?何トンもの鉛を肺に注ぎ込まれた感覚?

言葉はどうでもいいんです。今になってみれば、言葉に表そうとする営為こそが、心を癒す過程であったのだと分かります。

インタビューを読んでみると、スフィアンは「これは芸術作品じゃないんだ、僕の人生なんだ」と述べています。私にはその言わんとする趣旨がよく分かります。

肉親の死という体験を「芸術」というようなフォーマット、言い換えれば人から評価を受けるような形式に置換したくない。といって、肉親の死を自分の心の中だけに止め置くことも難しい。だから、「音楽」として自分の思いを定着するけれど、それは、自分の「人生」の必要上からであって、決して他者の評価を求める営為ではない、ましてや「商業」では断じてない。

彼の言いたいことは、そういうことでしょう。間違い無く。


彼のレーベルが『Carrie & Lowell』全曲をYouTubeに発表しています。断片的な歌詞と共に何曲かをご紹介します。日本語訳(意訳)は私が付けたものです。

Sufjan Stevens, “Drawn To The Blood” (Official Audio)‬

I’m drawn to the blood
The flight of a one-winged dove
How? How did this happen?
How? How did this happen?

For my prayer has always been love
What did I do to deserve this?

僕は血に引き寄せられて。
まるで片翼の鳩が飛ぶように。
どうして?どうしてこんな事になったんだろう。
どうして?どうしてこんな事になったんだろう。

だって、僕の祈りはずっと愛に満ちていたはず。
こんな目に会うなんて考えも付かない。

Sufjan Stevens, “Fourth Of July” (Official Audio)

アルバム中盤の「7月4日」という名の曲。フォークというよりもアンビエントと言った方がいいかもしれない音。抑制された歌が、逆に深い感情を際立たせてゆきます。歌詞の喚起するイメージが素晴らしすぎる。上記の通り、彼は「芸術作品」でないと言いますが、私にとっては、文学・芸術以外の何物でもありません。

※不明な固有名詞などは、下記サイトを参考にしました。
Sufjan Stevens – Fourth of July Lyrics | Genius

亡くなってゆく母親が彼に話しかけます。
もちろん、それはスフィアンの想像・創造です。

“Well you do enough talk
My little hawk, why do you cry?
Tell me what did you learn from the Tillamook burn?
Or the Fourth of July?
We’re all gonna die.”

お前はよく喋るねえ。
どうして泣くの?
私の可愛い「鷹ちゃん」。


教えてちょうだいな。
ティラムークの火災から何を学んだの?
7月4日の花火から何を学んだの?
私達はみんないつかは死ぬのよ。

ティラムークとはオレゴン州の森で、大規模な森林火災があったことで有名だとのこと。7月4日がアメリカ合衆国の独立記念日であることは勿論知っていますが、なぜこの文脈で出てくるのか分かりませんでした。上記サイトで調べてみると、米国では7月4日には花火を打ち上げて祝うものらしい。

「森林火災」も「打ち上げ花火」も空を焦がすほどの明るさですが、その激しい発光のあとは、(今まで明るかっただけに)夜空の暗さが恐ろしいまでに感じられるはず。それは、生命を華々しく燃焼させた後に散り、漆黒の闇へと帰って行く人間という存在の比喩なのでしょう。空高く舞う「鷹」は、地上からの狭い視野ではなく、鳥瞰的に「死」を見つめます。

“Did you get enough love, my little dove
Why do you cry?
And I’m sorry I left, but it was for the best
Though it never felt right
My little Versailles.”

存分に愛してもらったかい?
どうして泣くの?
私の可愛い「鳩ちゃん」。

お前を置いていってごめんね。
でも、それが最善の方法だったのよ。
正しいとは決して思わなかったけれど。
私の可愛い「ベルサイユちゃん」。

この連では、「鷹」ではなく「鳩」が現れます。鷹よりも小振りな鳩は、母親のそばにまとわりつく幼い子供のイメージでしょうか。スフィアンを見捨てたことに対する謝罪は、スフィアンが母から最も聞きたかった言葉でしょう。もちろん、それが本当だったとは思われませんが、彼はそうして自分の精神の均衡を保つのでしょう。誰がそれに文句を付けられる?

「ベルサイユ」はアメリカ人にとって「芸術性」の象徴なんでしょうか。幼い頃からスフィアンには芸術的なところがあって、それを正気に戻っていた母が「お前は芸術家さんだね、ベルサイユちゃんだね」なんて評したのかもしれません。想像の域を出ませんが……。大切な人を喪ったとき、他愛のないことの方が逆に大切な思い出として浮かび上がってくるものです。


繰り返しになりますが、『Carrie & Lowell』は、心の傷から血がドクドクと流れ出している作品です。ご興味をお持ちの方は、心して聞かれますよう。