儀式を必要とする音楽があるならば、儀式を必要とする物語もある

前回「村上春樹『騎士団長殺し』読まねばならない・読まれねばならない物語」の続きです。

『騎士団長殺し』から、興味深い部分を少しだけ引用してみます。

私はブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』をターンテーブルに載せた。ソファに横になり、目を閉じてその音楽にしばし耳を澄ませていた。一枚目のレコードのA面を聞き終え、レコードを裏返してB面を聴いた。ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』はそういう風にして聴くべき音楽なのだと、私はあらためて思った。A面の「インディペンデンス・デイ」が終わったら両手でレコードを持ってひっくり返し、B面の冒頭に注意深く針を落とす。そして「ハングリー・ハート」が流れ出す。もしそういうことができないようなら、『ザ・リヴァー』というアルバムの価値はいったいどこにあるだろう?ごく個人的な意見を言わせてもらえるなら、それはCDで続けざまに聴くアルバムではない。『ラバー・ソウル』だって『ペット・サウンズ』だって同じことだ。優れた音楽を聴くには、聴くべき様式というものがある。聴くべき姿勢というものがある。

(村上春樹『騎士団長殺し : 第2部 遷ろうメタファー編』P428 より引用)

この主人公の意見は、おそらく村上氏の意見でもあるでしょう。そして私の意見でもあります。今は知らない人も多いかもしれませんが、かつて音楽を聴く際に使った「レコード」はA面とB面に分かれていて、片面が終わればもう片面を聴くために「ひっくり返す」という作業が必要でした(知っていましたか?)。

面倒ですよね。CDなら、ダウンロードしたデータなら、そんな面倒はありません。

しかし、これはアルバムを聴くことに一つのアクセントを加える儀式にもなっていたんですよね。20-30分程度の演奏を聴いて一息入れる。そして音楽への集中度を再び高め、裏面の演奏を聴く。

ミュージシャンの方もそうしたレコードの構造を前提にして、アルバムの曲順を決め、緩急をつけていたんですが、今のCDやダウンロードデータで聴く音楽は、そうした儀式性を完全に排除してしまっています。悪く言えば、60分前後にわたり、のんべんだらりと楽曲が並べられている。

私個人はオンライン配信で音楽を聴くことにすっかり慣れきってしまっていますが、これは音楽に対する怠惰な姿勢にも繋がりかねません(というか、そうなってしまっている)。

少なくとも、ミュージシャンがレコードを想定して制作した音楽は、やはり「レコードをひっくり返す」という儀式をもって聴くのが本来の姿だと思います。


『騎士団長殺し』の上記部分を読んで、久々に(多分25年ぶりぐらいだと思う)、ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』を聴いてみました。うん、やっぱり名作ですね。この歳になると、高校生の頃と違って、E・ストリートバンドの演奏、特にクラレンス・クレモンズのサックスが心にしみます。実は、高校生の頃、大阪城ホールでの来日公演を見ているんですが、いまだに彼らのステージの熱気を覚えています。

残念ながらレコードはすべて処分したので、聴くのに利用したメディアはAppleMusic。私もこの作品は(CDではなく)レコードで馴染んできましたので、村上氏の言うように、A面最後の曲「インディペンデンス・デイ」が終わったところで、小休止が必要な気がしてなりません。

AppleMusicでは「ひっくり返す」ことが不可能ですから、「インディペンデンス・デイ」が終わった時点で、何か一つの区切りを心の中で作ってしまいます。そしてB面1曲目「ハングリー・ハート」への心構えをする。

今、これらの曲を実際に聴きながら記事を書いているんですが、データ音源ではこの2曲の間に、10秒強の無音が置かれていますね。悪くない配慮だと思います。


すこし話はそれてしまいましたが、儀式を必要とする音楽があるならば、儀式を必要とする物語があってもおかしく「あらない」。私はこの『騎士団長殺し』はまさにそうした種類の作品だと思います。

そして、この『騎士団長殺し : 第2部 遷ろうメタファー編』は、私も知らぬうちに、そのような儀式のもとで読んでいたのでした。この物語が、読まれるべき空間・読まれるべき時間において読まれるように、知らず知らず私は事を運んでいたんですよね。

このシンクロニシティ的な話は次回に回すとして、ブルース・スプリングスティーンの「ハングリー・ハート」について少しだけ。

Bruce Springsteen – Hungry Heart

サビの部分の歌詞。

Everybody’s got a hungry heart
(誰もが満たされない心を抱えている)

ワーキングクラスの代弁者・ヒーローたるスプリングスティーンが歌うと、非常に説得力があります。コンサートでも絶対に観客が大合唱する曲なんですが、それは、普通のアメリカ人が「自分のことを歌っている」と共感を覚える歌詞だからこそでしょう。

この歌詞が『騎士団長殺し』の中で明示されることはありません。しかし、この歌詞と、「人はみな未完成なものである、どんなに完全に見える人も危ういバランスをとりながらこの世を生きている」という話は、物語の地下水脈で繋がっているのではないかと思います。

私が未完成そのものの人間なので、そう思うだけなのかもしれませんが……。

『騎士団長殺し』の話、もう一回続けます。

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