2016年10月1日で、当塾も開業から満14年を経過しました。早くも15年目に突入です。個人的な感覚としては7〜8年はやってきたかな?というようなところなんですが、実際その倍ぐらいは塾を営んできたことになります。
10年以上存続する塾は少ないと聞きますので、当塾はかなり幸運な方なんじゃないかと思います。もちろん、それだけ努力はしてきましたが、そんなことは仕事としてやっている以上当たり前のことです。塾の存続はやはり、ひとえに塾をご理解下さりご支援下さった方々のおかげです。
この場をもちまして、大いに感謝の念を表したいと存じます。
正直、ご利用になる方からすると、塾が創業何年かなんてどうでも良い話だと思うんですよね。もちろん、一定期間以上存続しているのだから、妙な塾でないだろうということぐらいは推知できますが、それ以上の情報ではない。
そんな気持ちから、「祝!創業◯◯年!」なんて大々的に告知するほどのこともなく、淡々と日々を過ごしているんですが、この心境を表すにピッタリのフレーズがあったことをふと思い出しました。
「言ふて暮らしてゐるうちに」
文楽や歌舞伎に興味をお持ちの方なら、ご存知かもしれません。浄瑠璃「壺坂観音霊験記」の一節、お里のクドキ(登場人物が節に乗せて心情を吐露するクライマックス部分)の冒頭部分です。
盲目の夫沢市と暮らしている妻お里。お里は美人なんですが、沢市は目が不自由なのでその美貌を見たことはありません。そのお里が夜な夜な家を抜け出すのに気付いた沢市。これはきっと不義をはたらいているに違いないと、妻を責め立てます。その返答が下記の詞章。
詞章は下記サイトから引用させていただきました。
壺坂観音霊験記 「土佐町」「沢市内より山の段」
下線部がクドキ部分(下線はブログ筆者による)。
「エヽソリヤ胴欲な沢市様。いかに賤しい私ぢやとて、現在お前を振捨てゝ、ほかに男を持つやうな、そんな女子と思ふてか。ソリヤ聞こえませぬ聞こえませぬ/\はいな。モ父様や、母様に別れてから伯父様のお世話になり、お前と一緒に育てられ、三つ違ひの兄さんと、云ふて暮してゐるうちに、情けなやこなさんは、生れもつかぬ疱瘡で、眼かいの見えぬその上に、貧苦にせまれどなんのその、一旦殿御の沢市様。たとへ火の中水の底、未来までも夫婦ぢやと、思ふばかりかコレ申しお前のお目をなおさんとこの壺坂の観音様へ、明けの七つの鐘を聞き、そつと抜け出でたヾ一人、山路いとはず三年越し。せつなる願ひに御利生のないとはいかなる報ひぞや。観音様も聞こえぬと、今も今とて恨んでゐた、わしの心も知らずして、ほかに男があるやうに、今のお前の一言が、私は腹が立つはいの」と口説き立てたる貞節の涙の、色ぞ誠なる。
お読みいただくと分かるとおり、妻は愛する夫の眼病平癒を願い、明けの七つ(午前4時頃)から壺坂観音に毎朝(というか毎晩)お参りしていたわけです。それも急峻な山道をたどって。それを不義密通と疑われては……。
沢市は自分の邪推を恥じ入り、壺坂観音にいっしょにお参りしたいと申し出ます。そして妻の幸福を願いつつ、幾何丈とも知れぬ谷間めがけて身を投げる。半狂乱になる妻も、夫のいない暮らしに価値を見いだすことが出来ず、同じ場所に身を投げる。
これだけなら何とも陰惨な話ですが、そこは演劇。観音様がこの夫婦の真情を憐れみ給うて、二人を無傷で蘇生させます。それどころか沢市は晴眼者として蘇る。
中世仏教説話的なムードが濃厚な浄瑠璃ですが、私はこのストーリーが大好きです。
私達はそんな立派な夫婦ではありませんが、確かに夫婦って「言ふて暮らしてゐるうちに」という感覚があります。「あれこれ言いながら暮らしているうちに、ずいぶん年月が経ったんだなあ」という感覚ですね。
塾の運営にも全く同じ事が言えます。あれこれと言いながら指導したり面談したり授業準備をしたりしているうちに、生徒さんが立派な学校に合格・入学し、また次の新しい生徒さんを迎え……。そうこうしているうちに、あらら、ずいぶん年月が経ったんだなあ。
「言ふて塾してゐるうちに」といったところでしょうか。
皆様、今後とも宜しくお願い申し上げます。