名前の読み・有職読み

息子とあれこれ話をしていると、ボキャブラリーが増えてきたなと感じることが多いんですが、そこは小学生、時々妙な漢字の読みをすることがあります。

「ねぇねぇ、『生類憐れみの令』ってあるやん。」

「うん、『お犬様』ってヤツな。」

「あれって、『徳川つなきち』が作ったんやんな。」

「おいおい、それを言うなら『綱吉(つなよし)』や!『つなきち』やったら、江戸の下町のあんちゃんみたいやんか。『てやんでぃ!馬鹿にすんなぃ!おいら『つなきち』ってんだい!』とか言ってるような(笑)。」

あと、「安藤広重」を「あんどうひろじゅう」と思ってたり。ちょっと一緒にチェックしてやった方が良さそうです(笑)。


個人的な考えですが、名前の読み・発音というのは、どれほど重視してもしすぎることはありません。その「音」で一生呼び、呼ばれる。何万回何十万回とです。場合によっては死後もその「音」で呼び続けられる。これは一つの呪縛です。名前の発音や音の雰囲気が、その人の性格形成や人生に影響を与えていても不思議はない気がします。

例えば、名前を漢語的に音読みすれば、どこか厳めしさが生まれます。「木戸孝允」を「きど・こういん」と読むが如し。逆に和語的に訓読みすれば、柔らかさが感じられます。「きど・たかよし」みたいに。

自分の名前はいまさらどうしようもありませんが、息子が生まれて命名する際に考えたのは、名の字面・漢字は硬質なものにしつつ、読み・音は和語的な穏やかさを持つものにしよう、という事です。そして実際にそういう名前にしました。したがって、息子の名は音読みも訓読みも可能になっています。

漢語的に名を読むことを「有職読み(ゆうそくよみ)」と言いますが、あれ、なんとなく格好良いんですよね。自分の名は有職読みができないタイプの名なので、すごく憧れがあります。自分の名が嫌だというわけではありませんし、色々得もしてきましたが、自分で自分に名付けができればちょっと面白いのに、と思うことがあります。

そんなわけで、当塾のことは「宮田塾(きゅうでんじゅく)」と呼んで下さいね(ウソです)。