中島敦『名人傳(名人伝)』と 映画 “Wanted”

過日、映画 “Wanted” を見てきました。

上司や同僚にコケにされている冴えないサラリーマンが、スカウトされて「正義」の暗殺者集団に加入することになる。実は、幼い頃生き別れた彼の父親は天才的な暗殺者で、彼にもスゴ腕の血が流れている…。

といった内容なんですが、描写はかなり荒唐無稽。

アンジェリーナ・ジョリー演ずる先輩暗殺者が
“Kill one, save thousands.” (一人を殺して多くを救う)
と彼に教えを説くわけですが、暗殺任務の途中でまわりに迷惑をかけまくる。多数の一般人が巻き添え死していそうです。全然「一殺多生」になっていない。駄目じゃん。
(最終シーンで、一応そのつじつま合わせがありますが…。)

しかし、見ていてつまらないか、というとそんなことはありません。過酷なトレーニングに耐えながら一流の存在(殺人者ですが…)に成長してゆくというストーリーが好きなんですよね。個人的にはかなり楽しめました。

なお、殺戮シーンだけではなく、トレーニングシーン(重傷を負うほど殴られたり切られたり)の描写も過激なので、R-15指定になっています。

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さて、ここからは塾ブログらしく。

ご存知の方が多いかもしれませんが、中島敦という作家がいます。それはそれは素晴らしい文章を書く人でして、高校の国語教科書にはたいてい「山月記」あたりが採録されています。漢文調の文章を駆使し、美的感覚に溢れていながらもここまで面白い(迫力のある)作品を書けた作家は、明治期以降の日本文壇では中島敦ただ一人だろうと思います。

その中島敦に「名人傳」(めいじんでん)という作品があります。

主人公(紀昌)が天下第一の弓名人になろうと考え、師匠(飛衞)に教えを請う。大変なトレーニングを経て弓名人となった主人公は、自らが弓の道ナンバー1となるべく、師匠を襲う…。
(本当はここ以降が大事な内容ですが、ネタバレは避けておきましょう。)

中島敦は上記のトレーニング風景や格闘シーンを、大変な迫力で描写しています。

映画 “Wanted” と何の関係があるのかって?いやいや、それが大ありなんですよ。

“Wanted” では超絶殺人者となるべく動体視力を養うシーンがあります。主人公はもの凄いスピードで移動する自動織機の部品を手でつかむように命じられるんですが、「名人傳」にもこんなシーンが。

飛衞は新入の門人に、先づ瞬きせざることを學べと命じた。紀昌は家に歸り、妻の機織臺の下に潛り込んで、其處に仰向けにひつくり返つた。眼とすれすれに機躡(まねき)が忙しく上下往來するのをじつと瞬かずに見詰めてゐようといふ工夫である。
(中略)
二年の後には、遽だしく往返する牽挺(まねき)が睫毛を掠めても、絶えて瞬くことがなくなつた。彼は漸く機の下から匍出す。最早、鋭利な錐の先を以て瞼を突かれても、まばたきをせぬ迄になつてゐた。
(中島敦「名人傳」より引用)

織機まで一緒だ!(笑)

また、映画 “Wanted” では、暗殺者同士の銃撃戦で、銃弾が真正面からぶつかりあい地面に落ちるというシーンが何度もあります。(いずれの暗殺者も異常なほど精密に銃撃が行えるため、銃弾が真正面からぶつかり合うわけです。)

「名人傳」にはこんなシーンが。

向ふから唯一人歩み來る飛衞に出遇つた。咄嗟に意を決した紀昌が矢を取つて狙ひをつければ、その氣配を察して飛衞も亦弓を執つて相應ずる。二人互ひに射れば、矢は其の度に中道にして相當り、共に地に墜ちた。地に落ちた矢が輕塵をも揚げなかつたのは、兩人の技が何れも神に入つてゐたからであらう。
(中島敦「名人傳」より引用)

原作者か監督がこの作品を読んだんでしょうか?他にも色々とよく似たシーンが出てきます。中島敦の作品が翻訳されているのかどうかは知りませんが、想像が広がります。

ともあれ、中島敦「名人傳」は素晴らしい作品です。ご興味のある方は下記青空文庫をご覧下さい。全文が読めるようになっています(ごくごく短い作品です)。

青空文庫 中島敦「名人傳」