先般、幼児教育について書いていて、思い出した書籍があります。
欲ばりすぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)
苅谷 剛彦 / 増田 ユリヤ
苅谷先生は東大の教育学の先生、増田氏は教育関係のジャーナリスト。発刊直後に書店で見つけて即購入&読了しました。かなり印象深い本だったので、つい最近のような気がしますが、今、奥付を見てみると2006年11月の話なんですね。
色々な対談や論考が載っていて、まとめるのは難しいんですが、テーマとしては、「教育に過剰な期待をかけてはいけない、その一方で、過度に教育システムに不信感を持つこともない」ということになりましょうか。(ちょっと無理にまとめすぎですが…。)
とりわけ、最後に掲載されている「欲ばりすぎがもたらす教育格差 – 学ぶ力が『資本』となる社会」という論考は非常によくできていると思います。私が常々感じていながら、あまりにも漠然としているため、なかなか言語化できなかったことを見事に結晶化させて下さっています。
無理にまとめれば、「これからの社会においては、常に学び続けて自らの人的資本を増殖させ続けねばならない。」という話なんですが、教育格差との関連が、わかりやすく解説されています。興味のある方は是非ご一読を。
まぁ、抽象的な話ばかりでは何なので、本書から興味深い部分を引用してみましょう。
第2章 完璧な子育てはない (苅谷氏×増田氏の対談) より引用
苅谷発言「英語が出来たらいい、みたいな感覚というのは理解できます。できないよりは、できたほうがいい。だけど、そのチャンスを広げるためにたとえば小学校で英語を必修科目にしたとすると、時間の制約もエネルギーの制約もあるから、ほかのことができなくなっていくはずですよ。(中略)現実には子どものキャパシティの問題もあるし、教える側のキャパシティの問題もある。いろんな制約がある中で、リストにどんどん足したって、必ず何かはみ出してくる。僕らの仕事だってそうでしょう。あれもやりたい、これもやりたいと思ったって、一つ別の仕事を入れたら、どこかにシワ寄せがいって、ほかのことをやる余地は減るじゃないですか。大人はみんな知ってますよね。」
まぁ、具体的には英語の代わりに国語力や算数力が落ちてゆくのでしょう…。
第5章 なぜ日本人は右往左往するのか (苅谷氏×増田氏の対談) より引用
(ブログ筆者注:イギリスの教養層がラテン語を学んだり教えたりすることに何の疑問も持っていないことをうけて)
苅谷発言「日本のように急速に変化し続けてきた社会では、今後も、二十年後、三十年後には、何もかも変わってしまうかもしれないと考えて、近視眼的な見方で、すぐに役に立つか立たないかというような判断基準をあてはめようとする。(中略) ラテン語を学ぶ意味を疑わない社会と、今、漢文なんかやってどうするんだ、と考える社会とでは、これは随分大きな違いですよ。」
というわけで、古文や漢文は必要なのです!
ともあれ、お薦めの書籍です。