ちょっとややこしい話。
先日、小論文授業の準備として、ベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体」で示した考えを咀嚼していたんですが、よく考えてみると(よく考えなくても)、アンダーソンの見解って、つい最近読んだ 日高敏隆『動物と人間の世界認識』に示された考えの優れた具体例だなと。
アンダーソンの言うことを、語弊を恐れず極端に単純化すれば、「国家や国民というものは幻想にすぎない」ということです。その幻想を、国家が教育やマスコミを通じて人びとに植え付けてゆく。使用する言語や民族の同一性なんてのはあやふやな話でそれこそ「幻想的」ですから、国家アイデンティティの基盤にはならない。実際、使用する言語や民族構成が多様であっても、自他共に一つの国家だと認めている場合もあれば、その逆もあり得るわけです。
現在では古典的になった考え方だと言えますが、個人的にはとても馴染みやすい考え方です。思うに、国家がリアルに感じられる生活を送っている人は、ある意味、信じすぎやすい人、とても不幸な人ではないか。
もちろん、アンダーソンも「単なる幻想だから国家を廃棄せよ」ということを主張しているわけではありません。幻想故に無益と考えるのは、論理として飛躍があります。幻想故に有益・強固であるという主張も成立し得る。
ただ、国家が幻想であるということだけは自覚しておいた方がよい。国家や国民という概念を客観視できるようにしておいた方がよい。その方が、幻想に基づいて馬鹿なことをしでかしたり、人生を棒に振ったりしなくて済みます。ある意味、賢明に狡猾に振る舞えるはず、というのが私の考え。
私が一番の価値を置く「家族」というものも、幻想の一つにすぎません。私は開き直ります。そんなことは百も承知、幻想で何が悪い、幻想に生きるのが人間だ。幻想に生きることが不可避なら、私はこの目の前にいる人を幻想の中身にしたい。
大きな幻想に気づかない人や、大きな幻想を利用しようとする人が増えてくると困ったことになる、というのが近現代史の教えるところ。そんなことを思う今日は敗戦記念日。