俺は夏の黎明を抱きしめた。

まだ8月末なのに、風に少し秋の気配を感じるようになってきましたね。夏が大好きな私にとっては、少し寂しい時期です。

唐突ですが、一年のうち、どの季節のどの時間が一番美しいでしょうか。

私は「夏の夜明け頃」だと思っています。

何かが始まりそうな、何もかもが叶いそうな時間。爽やかな空気を吸い込みながら湖畔を歩けば、その日一日の期待だけでなく、世界や人生への予感にも胸が満たされてゆく……。

ちょっと詩人過ぎるでしょうか。しかし、幾つになっても、夏の黎明にときめく気持ちは変わりません。

西行は「ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」と歌い、春真っ盛りの桜の下での死を願いました(そして実際にそうなった)。

私なら「ねがはくは あはうみのそば 夏死なん その八月の 黎明の頃」と歌いたいところ。すみません、西行の歌をパクって適当に作ってしまいました。ただ、読み返してみると、結構本心を表しているような。「本歌取り」ということにしておこう(笑)。


夏の黎明を歌った詩人に、ランボー(Arthur Rimbaud)がいます。フランス象徴主義の若き詩人。文学かぶれの青年なら、大抵一度は興味を持つ詩人ですね。私も中学生の頃から彼の詩に親しみ始めたんですが、意味が把握できないところが幾つもありました。フランス語を知らないので訳詩で読むことになりますし、そもそも彼の詩自体が難解ですから仕方がありません。

しかし、その頃から今に至るまで、頭から離れないフレーズがあります。

俺は夏の黎明を抱きしめた。

愛しているにもかかわらず、それを表す言葉がなければ「抱きしめる」しかない。ランボーほどの鋭敏な詩人にして、「夏の黎明」の甘美さには言葉を失う。「夏の黎明」はそれほどまでに美しい。

中学生の頃から40代の今に至るまで、その解釈は変わりません。まぁ、あまり進歩していないだけなんですが……。

<追記>

この記事を書いてから、気になったので堀口大學の訳本を引っ張り出して調べてみたんですが、正確には「僕は夏の黎明を抱きしめた。」(『イリュミナシヨン』収録「黎明」より引用)になっています。どこで「僕」→「俺」と入れ替わったのか。

検索してみると、小林秀雄は「俺は夏の夜明けを抱いた。」と訳しているらしいので、それが原因なのかもしれませんが、今に至るまで小林秀雄訳本は持っていないので、図書館かどこかでちょっと見たのが紛れたのかも。ただ、早熟な天才ランボーのイメージとしては、「俺」の方がしっくり来ます。

ということで、今後も夏の夜明けには、「俺は夏の黎明を抱きしめた。」というフレーズを反芻しようと思います。