ああ、これはいい小説だな。
数日前、息子と静岡県まで日帰り旅行に出かけて、ちょっと空いた時間に書店をうろうろしていました。書店の最も目立つ場所に平積みされていたのは、鈴木るりか『さよなら、田中さん』。
鈴木るりか
『さよなら、田中さん』
何でも14歳の女子中学生が書いた小説だとか。テレビなどのマスコミでも話題騒然!との惹き文句は、私のようなひねた男性に反感を覚えさせこそすれ、魅力は感じさせません。
今までの経験上、小学生や中学生の書いた小説で面白いもの(というか小説好きな大人を満足させるレベルのもの)って、ほぼ皆無なんですよね。「天才小学生が書いた」というゲタを履かされているだけの話で、何の面白みもない。
そりゃそうですよね。ストーリーを展開していくにあたって必要な想像力・創造力は、人生経験から生まれてくるんですから。小学生や中学生にそんなものは求めるべくもありません。
そんなわけで、今回もかなり斜に構えた姿勢で本を手に取りました。「どうせ大したことのない小説に、また大人があれこれと手を加えて売ろうって魂胆なんだろ。ホント下らないよな……。」
で、読み始めて数ページ。文章力とストーリー展開にグイグイ引き込まれている自分を発見しました(笑)。
正直に言って、中学2年生のものした文章とは思えません。表現力といい、着眼点といい、スピード感といい、一流の小説です。読み進めるにつれて、さらにストーリーに引き込まれ、「中学生が書いた小説」ということを忘れていたぐらいです。鈴木るりか、凄い。
何が凄いって、世の中をちゃんと「自分の目で」観察できているんですよね。確かに世の中に賢い中学生はたくさんいます。でも、世の中を洞察する能力のある少女はそうそういない。しかもその世界の認識の仕方が、上空から俯瞰するような見方じゃないんです。地べたから上を見上げていくような感じ。
賢い少年少女はどうしても世の中を俯瞰してしまう。それは悪いことではありません。むしろ対象世界の認識方法として、正しいと言ってもいい。地面をはい回る虫よりも、空を舞う鳥として世の中を見るほうが、はるかに効率的だし、遠くまで見通せるわけですから。
ただ、それだけではやはり世の中の認識として非力です。地べたから上を見上げていくような視線をも持ち得て初めて、上滑りでない社会認識が得られるんだと思うんですよね。地面をごにゃごにゃと這い回って得られる認識がなくては。
この鈴木るりかさん、どこでどうしてそういう視線を手に入れたのか私には分かりません。おそらくは、その類い稀なる観察眼・洞察力のなせる業なのだろうと思いますが、これは表現者として本当に素晴らしいことだと思います。
あと、表現に力みやけれん味がないのも素晴らしい。これぐらいの年齢の少年少女は、自己像を定める過程にあるわけで、どうしても自己を大きく見せたいという欲求に負けるのか、妙にひねくった(無駄に格好をつけた)文章を書くことが多いんですよね。俗に言う「中二病」というやつです(笑)。
いや、そんな硬い熟語を使わなくてもいいんだよ、そんなに複雑な構文で書かなくたっていいんだよ、むしろそうした表現が読者に生硬な感じを与えてしまうんだよ。なんて言いたくなることが多いんですが、彼女の文章にはそうした力みが全くといっていいほどありません。
着眼点・観察力といい、文章表現といい、これは知的な大人の文章、というか立派な文筆家の文章だと思います。14歳でこの域に達しているのは驚嘆に値します。
この『さよなら、田中さん』、正確には五編の短編からなる小説なんですが、いくつかの短編の基礎はさらに幼い頃にでき上がっていたようで、その早熟な構成力にもびっくりです。
この鈴木るりか『さよなら、田中さん』の美点は、とにかく読んでいて面白い、ストーリーに引き込まれるというところ。購入したその日に妻が読了、次の日に私が読了という感じで、二人ともが大いに満足しました。
素晴らしい構成、美しい文章。それらを兼ね備えた小説は、世の中にいくらでもあります。でも、それで面白いか・のめりこめるかというと、話はまた別です。
書いてよいかちょっと迷いますが、登場人物があまりにも完全に小説家のコントロール下に置かれている小説があります。登場人物が小説という舞台の上で完全に計算された動きを見せる。1ミリたりともズレが生じない。
そうした小説は、国語の読解指導・入試演習指導には非常に役立ちます。間違いなく役立ってくれていて感謝していると言っても構いません。ただ、私がそうした小説をプライベートでも読むかと言うとまず絶対に読まない。具体的には重松清氏とか浅田次郎氏なんですけどね(言ってしまった)。
鈴木るりかの小説は、そうした弊を(あくまでも私のような読み手にとっての弊ですが)避け得ています。人物の動きが緩やかなんです。きっちり作者の決めたライン上を「動かされている」のではなく、「勝手に生き生きと動く」人物を作者が追いかけている。
こうした小説を書く人として(かつ中学入試頻出作家として)思い浮かぶのは、あさのあつこ氏です。あさのあつこ氏には『バッテリー』という素晴らしい長編小説がありますが、あの素晴らしさは、主人公の少年(原田巧)の荒ぶる魂がまず最初に定立されて、その成長を筆者が必死に追いかけているところにあると思うんですよね。
おっと、何だか脱線しまくりそうなので、それらの話はまた別稿にするとしましょう。
実は、この鈴木るりか『さよなら、田中さん』、あさのあつこ氏が絶賛したとか。分かる、分かる、分かりすぎる。作家として同じ方向性を持っていますもん。
あと、西原理恵子氏も大絶賛したそうで、これも超わかる(笑)。彼女とは「地べたから世の中を見据える」という大きな共通点がありますからね。
ネタばらしするのも何なので、内容にはあまり触れないできましたが、ちょっとだけ。
最終編の「さよなら、田中さん」は、それまでの編とは異なり、中学受験生の三上君の視点から描かれます。三上君、本当にいい子なんですが、勉強は得意でない。
僕の通っている塾は、成績順にクラス分けされていて、僕が所属しているのは最下位のクラスだ。僕たちが陰で「お客さん」と呼ばれていることも知っている。塾に言われるままにあれもこれもと講義を目一杯取らされ、ただただそれを消化するだけ。塾側からは全く期待されていない。有名校に合格して進学成績を上げ、来年の生徒募集の吸引力になるような塾生には決してなれない。ステップアップだの実力強化だの逆転可能だのの惹句を並べて、一コマでも多く受講させ、授業料を搾り取るだけの要員。
そんな扱いをされてまでなぜ行くのかというと、親が「子供は塾に行っている。だから大丈夫」という安心感を得たいためだ。それだけのために高い授業料を払っている。僕たちは、ただ座っているだけ。
鈴木るりか『さよなら、田中さん』より引用
すごく冷徹に現実を見据えた文章ですよね。私たちの塾では「『お客さん』を作らない」ということを開業当時からルールにしていますが、この世界、上記のようなケースはごまんとあります。スパルタ式の受験塾に行かせているがどうもおかしい、そんな不信感を覚えた保護者様からご相談を承ることも稀ではありません。親が安心したってしようがないんですけどね、ブツブツ……。
さてさて、三上君は結局、受験校すべて不合格となるんですが、そこからがこのストーリーの見せ場です。気になっている女子の花実さんとの交流、ひどい仕打ちをする母親、そして兄や姉の熱い思いやり。
私も妻も、母親の言動を許すことができず、逆に兄・姉の思いやりには涙ぐみました。中学受験生やその保護者様が読んでも面白いんじゃないかと思います。
長くなりましたが、最後に。
作者プロフィールを見ると、「好きな作家:志賀直哉、吉村昭」とあって、びっくり。そんな激シブの作家が好きな女子中学生なんていねーよ!とおもわず書店内で笑ってしまいました。ホントに趣味がいいなあ。
特に、(文学少女としてのポーズではなく)志賀直哉を心から評価できる人は、間違いなく文章を味わう力の高い人です。志賀直哉の作品は、一見何ということもない文章なのに、読み進めるとその滋味が溢れ出してくるような文章から成り立っています。
これからが楽しみな逸材の出現。脱帽して敬意を表したいと思います。