ビースティー・ボーイズを考える アダム・ヤウクの死を悼んで

連休中、Beastie Boys (ビースティー・ボーイズ)の Adam Yauch (アダム・ヤウク)氏が亡くなったというニュースを知りました。享年47の若すぎる死です。

Adam Yauch – Google 検索

現代ヒップホップ文化を代表すると目されている Beastie Boys が世に出てきたのは、私が中学生の頃。当時よく見ていたMTV系の番組(洋楽プロモーションビデオを流す番組)で、「(You Gotta) Fight For Your Right (To Party)」がアホほどオンエアされていたんですが、私にはその良さがよく分かりませんでした。

本格的なヒップホップと言うにはあまりにもハードロック的だし、ハードロックとして考えればあまりにもオリジナリティがない、というかショボい。当時の私は「こんなのを有り難がる輩は音楽が分かっていないヤツだよ」と彼らを軽視していました。今考えてみると、目も耳も節穴、何も分かってないなと(笑)。

私は決して熱心なファンではありませんが、彼らの活動を今振り返ってみると、そのポイントは「(意図的な)ズレ・異化」にあるように思えてなりません。

そもそもヒップホップやラップという文化は、黒人文化であり、白人がいくら努力しても模倣にしかなり得ない。むしろ真剣に真似ようとすればするほど、滑稽感が生まれてくるわけです。特にギャングスタ・ラップと呼ばれるようなハードなラップ、つまり、ダブダブの服にキンキラキンのアクセサリーで「暴力・犯罪・女・車」を機関銃のようにラップするというようなスタイルは、白人やアジア人が真似ても、借り物感、物まね感が拭えません。

そうであれば、ラップやヒップホップの本質は押さえた上で、上記のようなステレオタイプからズレたスタイルで行くべきだ、と考える人達がいてもおかしくありません。意識的にそう考え、人々に「ズレたスタイル」を的確に提示できたのが、白人グループである Beastie Boys ではなかったかと思います。

英米圏の多くの人々は、Beastie Boys の提示する「意図的なズレ」を「高度な笑い・ユーモア」として捉えたため、大いに人気を博した、というのが私の分析です(もちろんサウンド・プロダクションの良さもありますが)。ちなみに「異化と笑い」という論点は哲学的な問題でもあります。

アダム・ヤウクが亡くなった後、YouTube の映像やコメントを見て回っていたんですが、こんなコメントがありました(日本語訳は私)。

RIP Adam. No band has ever made me laugh as much as you guys did back in the day. It was a blast.

(アダムよ安らかに眠れ。今まで、あんた達ほど俺を笑わせてくれたバンドは一つもなかったよ。ぶっ飛んだぜ。)

類似のコメントが山ほどあった事は言うまでもありません。

今考えてみると、デビュー当初のプロモーションビデオにしても、知的階層に属する白人が「ワル」のマネをして遊んでいるという感じがあります。それを本気にして熱狂する若者がいるならそれはそれでOK、売れることも大切だからね、というしたたかなスタンスだったんじゃないでしょうか。

実際、Beastie には、チベットの人権状況についての積極的な発言や、911テロ被害者の支援コンサートといった政治的アクションも多く、これは彼らの知性を裏書きしているように思います。

自分たちで設立したレコード会社グランドロイヤル (Grand Royal) には、チボ・マット(Cibo Matto)、ショーン・レノン、バッファロー・ドーター、アタリ・ティーンエイジ・ライオットがいたんですが、その趣味の良さにクラッと来ます(チボ・マット、再結成してくれないかな)。

アダム氏を惜しみつつ、彼らの「(意図的な)ズレ・異化」を表すビデオを引用しておきます。

Beastie Boys – Intergalactic


1970年代のB級、いやC級SFムービー(笑)。どこかズレています。

Beastie Boys – Sabotage


1970年代のB級、いやC級刑事ムービー(笑)。これもやっぱりどこかズレています。

Beastie Boys – Ch-Check It Out


お婆ちゃんも紳士もみんな暴力的すぎ(笑)。