「表現の自由」はなぜ大切なのか for 中学生

表現の自由はとても大切な人権である」ということは中学校公民でも習う基本的な知識ですが、なぜそうであるのかというのは、中学・高校レベルではきちんと教えていないのではないでしょうか。少なくとも私は中学・高校でその理由を教わった記憶がありません。

詳しく勉強しようと思うと、いくらでも勉強できるジャンルではありますが、中学生にも分かるレベルで説明すればこういうことです。

民主主義という政治形態は、国民ひとりひとりが主役である。

つまり、主役である国民が政治を決定することになる。
(「国民主権」ということですね。)

政治を決定するということは、具体的には、国民が議員を選挙で選ぶこと。
(「間接民主制」ということですね。)

選挙で優れた議員を選ぶには、候補者のことをよく知ることが大切。候補者はどんな勉強をしてきて、どんな活動をしてきたのか。平気で賄賂を貰うような人ではないだろうか。定見もなくフラフラと権力者におもねってきた人ではないだろうか。

情報がないと、そうしたことは分からない。

情報は誰かが「表現」しないと伝わってこない。

だから「表現の自由」は最大限尊重しよう。それが民主主義の基本になる。

他にも色々な説明ができます。例えば、「表現」は人間の根本的な欲求である、といったことも理由になるでしょう。

中学校の先生方が憲法論に詳しいとは思えないので、学内のテストや高校入試で、ここまでの説明が求められるとは思いません。が、中学生であっても一国民。知っておいて悪い話ではないでしょう。


ブログですので、少し話を進めておきましょう(ここからは少し大人向け)。この「表現の自由」、いったん阻害されてしまうと、民主主義過程のもとでは、回復することが極めて困難だとされます。理由は下記の通り。

「表現の自由」が権力者によって阻害される。

権力者に不都合な事実を「表現」できなくなるので、国民が事実を知る機会が奪われる。

国民が選挙というシステムの中で、不適切な候補者を落選させることができなくなる。

不適切なシステムが維持されてしまい、「表現の自由」も阻害されたままになる。

最近、東京都の青少年健全育成条例が問題になっていますが、「表現の自由」に関する根本的な理解を欠いた議論が横行しているように思うのは私だけではないと思います。

もちろん、過激な表現行為や不適切な表現行為はたくさんあるでしょう(そして、個人的には、そのほとんどはくだらない表現だと思う)。しかし、そうした行為だけを判別し取り締まることは非常に難しい。そもそも、過激な表現行為をしたい成人がいて、過激な表現行為を見たい成人が見るという場合、誰かを害しているわけではありません。何の問題もない。

当然、過激な表現行為を見せたくない、見たくないという利益は守られねばなりません。実際、私も幼い息子に過激な表現を見せようとは思わないわけです。

しかし、もとの表現行為を断つというのは、かなり危ない「行き過ぎ」でしょう。「表現の自由」を守りつつ、子どもを有害な環境から守るという手段はいくらでもあるはず。有害情報を流す携帯サイトなんかはごまんとありますが、ちゃんとしたご家庭ならフィルタリングをするなり、何か対策を立てていらっしゃるはずですよね。

「表現の自由」を尊重するということの本質的意味を学校で教えてこなかったことが、今回のような話につながっているのではなかろうかと思うのです。

この話題を国際的なレベルに引き上げると、「ウィキ・リークス」の話になるわけですが、ちょっと長くなりすぎましたね。「ウィキ・リークス」、個人的には前代未聞のとてもおもしろい出来事だと思っています。