同意される方が多いような気も、少ないような気もする話なんですが。
勉強って本当に楽しいことだと思うんですよね。少なくとも私にとっては、勉強=大きな趣味であって、それは多分死ぬまで変わらないだろうと思います。より正確には、将来、加齢によって他の趣味(バイクに乗るとか)ができなくなるであろうことを考えると、勉強の人生における趣味的重要性はさらに向上する可能性が高い。
体を動かすことと違って、勉強に関するパフォーマンスは、適切にトレーニングしている限り、加齢によって衰えることがないというデータをどこかで見た覚えがあります。本当にその通りだと思います。むしろ、脳内の知識の集積度・相互リンケージが向上することを考えれば、パフォーマンスが更に向上する可能性も高いでしょう(ボケない限りは)。
こんな話、塾ブログであるから書ける話でありまして、あなたの趣味は何ですかと聞かれて「勉強です!」と答えようものなら、おそらくは怪訝な顔をされると思うんですよね。場合によっては変人扱いされるかも。
ただ、世の中には私と同じように、ただただ楽しいから勉強しているだけであって、勉強そのものが目的になっている人も少なからずいると思うんですよね。もちろん勉強が結果として役立ってしまうことを否定するわけではないんですが、正直に言って、役立つかどうかなんてどうでもいいんです。ただ単純に楽しいからやっているだけ。
ですから、「いつも勉強して偉いな」と思われても困ってしまうんです。ゲーム好きな少年がゲームに没頭していたり、女好きが朝から晩まで女の子を追い掛け回しているのと、本質的に何も変わりはありません。なのになぜか勉強だけが「エライ」とされてしまう不思議。まあ、私のような人間にはトクな世の中なので文句はないんですけれど(笑)。
昔、私が大学生だった頃、高坂正堯先生の講義(国際政治学)を毎週受けていました。何曜日だったか失念しましたが、先生のお顔と午前中の法経第4教室が重なって思い出されます。
先生は国際政治学に多大な影響を与えられた方ですが、授業は何時もフランクな感じの関西弁で進めていらっしゃいました(京大の先生方は標準語で講義される方が多い気がする)。で、そのやんわりとした関西弁で、授業の合間に雑談というか、ぼやきをこぼされる。愚かな私は国際政治学のトピックよりもそっちの方をよく覚えてしまっているんですが、ある日ぽつりと先生がおっしゃった言葉が今も思い出されます。
「君らな、法学とか政治学とかこんなものは学問と違うんよ。あまりに役に立ちすぎるんや。真の学問というのは、もっと現世的な利益からかけ離れた純粋なものなんや。例えば哲学とか、数学とか。とにかく役立ちすぎる学問ってのは本当の学問とは違う。」
とおっしゃりながら、また政治学の話に戻られて、思わず笑ってしまった覚えがあるんですが、未だに覚えているのは、やはりそこに先生の真実の声があったからではないかと思います。確かに、(あまり知られていないかもしれませんが)法学って世の中に出ると異常に役立つんですよね……。
そんな思い出もあって、何か現実社会での利益からかけ離れたことを勉強したくて堪らない気持ちが兆すことがあるんですが、その心の声に従って、この半年間取り組んできたのが「ラテン語」。昨日でその第1段階が終了しました。もちろん、ラテン語はとてつもなく奥深い世界なので、まだ幼稚園レベルですが、自分の中では大きな一歩です。
しかし、紀元前の言葉を学ぶのがこれほど楽しいとは!仕事も忙しく、毎日勉強時間が取れるわけではないんですが、机に向かってラテン語を勉強している時間は最高の一時でした。
ほんの初歩だけではありながら、ラテン語を勉強して分かったこと。
ラテン語、めちゃくちゃ役立ってしまうやん(笑)。
動詞に複雑な活用(conjugation)があるのは当然、名詞にも代名詞にも形容詞にも強烈な曲用(declension)があるという、屈折語の極みのような言葉を学ぶことは、日本語という膠着語の世界に住み、今や孤立語なのか何なのかよく分からない言語に発展(退化?)した英語の世界に触れている私のような者には、極めて新鮮でした。そして、その知識や体験が、自分の言葉の世界を更に深化させてくれる……。もう最高&最高&最高。
ということで、今後、ラテン語の話が増えると思います。
Vīta sine litterīs mors est.
学問のない人生は死である。
私の大好きなセネカの言葉です。