ギリシア悲劇に驚嘆する

最近思うところあって、西洋古典に関する作品を読む事が多くなっています。

何ヵ月か前に読んだ中公新書の『ローマ喜劇』(プラウトゥスやテレンティウスの作品解説)も、驚きの連続でしたが、今読んでいる中公新書『ギリシア悲劇』には、もう脱帽・脱帽また脱帽。古代ギリシア文化のレベルはもう驚異としか言いようがありません。

アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスといった悲劇作家達が活躍したのって、紀元前5世紀ですよ。紀元前5世紀。この段階で劇構成もメッセージ性もとんでもなくハイレベルな戯曲が産出されていたということが信じられません。

この頃の日本って、縄文時代ですからね。ちょっと自虐的すぎるかもしれませんが、この頃の私達のご先祖は文字すら持たぬ未開の民。まさにバルバロイ(わけの分からない言葉をしゃべる野蛮人)。

丹下和彦 / ギリシア悲劇 : 人間の深奥を見る (中公新書)

上記作品は、各悲劇のストーリーや作品のもつ社会的意義が見事にまとめられており、私のような素人には大変勉強になりました。これだけの書籍をまとめあげられるのは、該博な知識のみならず並大抵ではない力量を著者がお持ちである証。

ヘロドトス曰く、ギリシア民族は次の四つの特質を有してしていたとの由。法、自由、叡知、勇気。それぞれの特質と各悲劇の関連性が見事に解き明かされてゆく本作を読むのは本当に痛快でした。しかし、紀元前5世紀に、自らを「ギリシア人は勇気ある民族であり、法のもとに自由平等な市民社会を構成し、かつ知的水準が高い」と強く認識する民族って、宇宙人かなにかでしょうか。

ソポクレスの『オイディプス王』。エディプス・コンプレックスの話で大まかな筋書きは知っていたものの、ここまで深みのある戯曲だったとは。

主人公オイディプス王は、知的存在としての探求心ゆえ、結果として自らの禍々しい過去(父親殺害と母子相姦)を知るに至り、その懲罰として自らの手で自らの目をえぐり取る。この自己責任の引き受け方(自殺せず憐れな存在として生きながらえる)は、神の支配する宇宙空間に一個の人間としての居場所を主張するものである。言い換えれば、ソポクレスの(そしてギリシア社会の)知への絶対的信頼を表す。

こんな解説を読むと、古代ギリシア世界で哲学が生じたのも宜なるかなと思わざるを得ない。

自らの手で我が子を殺す母『メデイア』、逆賊となった兄の屍の埋葬を試みて捕縛され、最後は獄中で死を選ぶ女性『アンティゴネ』、すごいキャラクターが次々出てきて圧倒されまくり。(一見)ワケのわからない新興宗教と国家権力の対立を描く『バッコスの信女』なんて、 設定を現代の日本に置き換えて発表しても、すごくリアルなドラマと評価されるんじゃないでしょうか。

最後に今日読んでいて、唸らされた部分を引用します。ご興味のある方は現代文の問題だと思って読んで下さい。

(悲劇的人物とは英雄たる一瞬を持つ人物の謂である)。
(中略)
英雄の退行化とは悲劇の退行化ということである。理想を持たない人間は、神あるいは運命、また心中の情念と対決することをしなくなる。個人の心中の悩みは公開され、苦しみは複数の人々によって担われる。英雄が姿を消し、小市民が増える。アリストパネスはこの現象を民主的と呼んだ。民主的とは非悲劇的の謂に外ならない。

(丹下和彦『ギリシア悲劇 人間の深奥を見る』P242-243 より引用)

もう、令和の思想家が今の世の中を描写しているとしか思えないですね。アリストパネスってSNSを知ってたとしか(笑)。

この英雄の退行化現象は、前五世紀末の時代風潮と無関係ではない。自己を取り巻く世界の事物は名前と実体に乖離し、どちらがその真の姿であるのか判別し難い。従来の価値観では把握できなくなった世界、事物、人間、あるいはそれを規定する概念。<幻のヘレネ>はこうした状況を象徴する。見たと思ったものが実際には見えていない。見る側の目も病んでいる。世界が多様化すると同時に、それを捉える目=認識力も病み衰えてきたのである。

(丹下和彦『ギリシア悲劇 人間の深奥を見る』P242-243 より引用)

紀元前5世紀にこんなことを考えていたなんて……。

こういう話をすると、副代表はいつも「古代ギリシアやローマには宇宙人が来ていた説」を出してくるんですが、ちょっと真剣に信じてしまいそうです(笑)。