ビクトル・ハラ「平和に生きる権利」

あっという間に今年も9月ですね。毎日が飛び去るように過ぎていきます。たまにはブログも書かねば。

さっき見つけて驚いたニュース。

有名歌手殺害で確定判決 チリ元軍人7人、1人自殺 – 産経ニュース
https://www.sankei.com/article/20230831-V34ZZAACB5MP7D2TC6YVKCWBF4/

チリにビクトル・ハラ (Victor Jara) という歌手がいます。否、いました。

チリという国は、1970年にアジェンデ大統領をリーダーとする社会主義政権が樹立されるも、3年後に軍部クーデターが発生、一気に右寄りの政体に移行するという歴史を持っています。もちろん後で糸を引いていたのはアメリカ(この頃はニクソンとキッシンジャーですね)。

「裏庭」に自国にとって都合の悪い政権が出来ると、陰に陽に排除工作をして、「民主的」に「親米派政権」を作らせるというのは、アメリカ合衆国のお家芸と言っていいレベルですよね。もう何回見たか分からない。もちろん日本もその一例で……って、こんなことを書いたら怒られるかもしれませんが。

チリに話を戻します。先述1973年の軍部によるクーデターの際、アジェンデ大統領派の人々が沢山失踪しました。言うまでもなく軍部による粛清・抹殺だったわけですが、その際に著名な歌手であったビクトル・ハラも殺害されてしまいます。

経緯をWikipediaから引用します。

1973年9月11日、アウグスト・ピノチェト将軍の軍事クーデター(チリ・クーデター)によってアジェンデ政権は崩壊。その直後、ビクトル・ハラは軍に逮捕され、チリ・スタジアム(屋内競技場。エスダディオ・ナシオナル・デ・チリとは別の場所)に連行された後、虐殺された。

連行されてきた多くの市民を励まそうと革命歌ベンセレーモスを歌ったところ、ギターを取り上げられ、「二度とギターを弾けないように」と両手を撃ち砕かれ、それでも歌いやめなかったため、大衆の面前で射殺されたという伝説が流布されたが、しかし、現存しているクーデター時の写真などによれば、連行時は後ろ手に両手を組まされて軍の銃で監視されていたはずであり、そもそも、ギターなどは持ち込めたはずがないのが実情であった。事実は、手拍子で同曲を歌ったところ、兵士に地下に連行され、そこで銃で殺害された。

ビクトル・ハラ – Wikipedia より引用

これは趣深い話だと思います。実際にあった事件を超えて、「劇的な死」「非業の死」として人々の間に伝説が語り継がれてゆく。そして革命を忘れない人々の心理的な象徴へと昇華してゆく。何か大きな政治的事件があった時、人々は、社会は、象徴となる人物を強く求めるように私は思うんですが、チリのビクトル・ハラはその典型例だと思います。

そしてその象徴性の強さ故に、後の時代にまで影響が及ぶ。1973年の殺人事件となれば、普通は時効にかかりそうなものですが、このあたりは各国の法文化が現れるところで、(政治犯罪だけなのか否かは知りませんが)チリでは時効にかからないようですね。下記にある通り、下手人はどこまでも追いかけられています。

このときの犯人である兵士3名は、2009年になって、チリで逮捕、訴追されている。また2013年には、首謀者ペドロ・バリエントス(2013年現在アメリカ・フロリダ州在住)を含む残りの4人に対してもサンティアゴの控訴裁判所から逮捕状が発行された。

ビクトル・ハラ – Wikipedia より引用

そして昨日(2023.08.31)のニュース。

南米チリの最高裁は30日までに、1973年9月に起きたピノチェト陸軍司令官によるクーデターの際、左派系の著名歌手ビクトル・ハラら2人を拉致し殺害した罪で元軍人7人に対し禁錮約25年などの判決を言い渡し、確定した。現地メディアによると、うち1人は拘置施設に送られる前に自宅で自殺した。
(中略)
クーデターから50年の節目で著名歌手殺害に一つの区切りがついた形。

上記産経ニュースより引用

何と言えばいいんでしょうか。人を殺めた以上、その罰を受けるのは当然だとも思う反面、50年以上前の政治的殺人の責任を追及する執念深さに心を寒々とさせられるのもまた事実。ビクビクしながらの逃げ隠れに大半を費やす人生、50年以上を責任の追及に費やす人生。一体誰が幸せになるのか。この一件、人間という存在が持つ業を感じさせる話だと思います。

実際に歌を聴いてもらう方がイメージをつかみやすいですね。

VICTOR JARA の歌は1:35から。

VICTOR JARA – EL DERECHO DE VIVIR EN PAZ (“THE RIGHT TO LIVE IN PEACE” )

中川敬が日本語に訳して歌っています。

中川敬(SOUL FLOWER UNION) – 平和に生きる権利 [2012]

いわゆる「左」的な曲とされてきた歌ですが、私は昔から、政治的立場によって価値が変わる歌ではないと思っています。左翼にとっては良い歌だが、右翼にとってはダメな歌?何ですかそれ、しょーもないですよね。音楽って政治よりもっと普遍的な力を持っているんじゃないかな。

そもそも「平和に生きている」からこそ政治的立場を云々できるわけで、平和がなければ政治も右翼も左翼もへったくれもありません。大人も子供も平和に生きられるのが何よりも大切な前提になるはずで、平和を真剣に願う人達の活動を冷笑主義的に見るのは、とても下品なことだと私は思います。