前回書いた彰義隊の話ですが、記事を書き始めたときに書こうと思っていたのはこっちの話。いつも行き当たりばったりでブログを書いているのがバレバレですね。すみません。
現代の日本政府は明治政府の流れを汲んでおりますので、学校教育で使われる歴史の教科書だけを読んでいると、「明治政府は出発最初から盤石な権力基盤を持っており、(江戸幕府の人権無視的な統治ではなく)合理的な統治を行った」という理解をさせられそうになりますが、それはやっぱり幻想。
明治新政府といっても、当初は薄氷を踏む思いで政権を運営していたはずで、大人になってから色々読んでみると、西南戦争の頃つまり明治10年ごろまでは、なにやら頼りなげな感じのある政権です。
当時を生きる庶民は、生活がかかっている分、私たちよりさらに冷静な目で新政府を見るはずで、特に江戸の人達は薩摩や長州の田舎者が何をゴチャゴチャやってやがんだ、ぐらいな見方だったろうと思います。
森まゆみ著『彰義隊遺聞』より引用します。
上からは明治だなどというけれど
治まる明(おさまるめい)と下からはよむこんな戯歌も広まった。
森まゆみ『彰義隊遺聞』より引用
これはうまい。お上は徳川家から明治政府とやらに替わったけれど、くだらねえ、下々の俺達からしたら「治まるわけねーよ」ってな。そんな感じの戯歌ですね。
官軍(明治新政府軍)が旧幕府派を殲滅するのが、彰義隊上野戦争ですが、東京(というか当時はまだ江戸)は繁華の地。住民もたくさんいるわけです。そこで新政府は近辺住民に立ち退きの布告を出します。
ただ、住民としては上記の戯歌のような感覚で、新政府の威光にひれ伏すなんて気持ちはこれっぽっちもないでしょうから、聞き流す人も多かったようで。
戦争が近づいて新政府が付近の住民に立ち退きの布告を出しても、砲の音のなかで朝ご飯を食べていた話などは、いかにも庶民である。これらの記録はなぜか昭和二十年、空襲が激しくなっても東京から疎開しなかった人々の心情に似ている。私は戦時中の生活の聞き書きもずいぶん集めたが、「疎開なんて考えもしなかった」「他人は死んでも自分は助かると思っていた」「焼夷弾が落ちると、この世のものと思われぬ美しさだった」「屋根にのぼって航空ショーを見てるようだった」「どうせ死ぬなら自分の生れた町でと思った」などと、なかなかにのんきなのである。
森まゆみ『彰義隊遺聞』より引用
ああ、そうだろうなと私も思います。ただでさえ生活をぶち壊しにくるお上に腹が立っている。新政府か徳川か知らんけど、俺達と何の関係があるんだ。何が布告だ、ガタガタやかましいわ。米軍か日本軍かなんか知らんけどウザいねん、めんどくさいねん。
そんな反骨心があったか、投げやりになったか分かりませんが、庶民の感覚としては、この戦時中の呑気さ、かなりリアルなものだと感じます。
森まゆみ氏のおっしゃる通り、太平洋戦争中の実話を読んでいると、似たことが書かれているのをよく見るんですよね。「何とかなるわ」とか「もうどうなってもいいわ」とか。「お国のために粉骨砕身どこまでも戦うぞ」なんて本心から思う庶民はほとんどいない。あ、もちろん建前は別ですよ。本音を言えば「非国民」とバッシングを受けて面倒なことになりますからね。
私の父方の祖父は少し大きな商売をランニングしていたこともあって、この玉造の地に戦時中も残っていました。もちろん妻や子供達(私にとっての祖母や父・叔母)は田舎に疎開です。
GHQが撮影した、戦後間もない頃の玉造〜大阪城あたりの空撮映像があるんですが、もう見事なまでに一面焼け野原です。見渡す限り何もない。よくこんなところでおじいちゃん生き延びたな。生き延びてくれてありがとう。
私が幼い頃、祖父から戦争末期の話をよく聞きました。神経を尖らせるようにして戦火の日々を暮らしていたのかというと、なんかムードが違うんですよね。
祖父曰く「なんかでっかい爆弾が落とされたら、すごい爆風でなあ。人がどっか〜んて空高く舞うねん。ビルの4階ぐらいの高さまで。ほんま笑うで。」
いやいや、人が死んでるねんから笑ったらあかんやん、と子供心に思うんですが、祖父の語り口が面白くて、私もいつも笑っていました(ごめん)。
「○○の辺りは一面焼け焦げた死体置場になっててな、そらもうすごい臭いやったわ。」なんて話もリアルな場所のエピソードとしてよく聞きましたが、そうした話が涙ながらに語られたり、「二度と戦争を繰り返してはならない」といった「教訓」には繋がったりは絶対にしないんですよね。ウチの祖父の場合。なんかもっと「ドライ」で「他人事」な感じと申しますか。
多分、戦争は自分の商売をジャマするろくでもない出来事、軍部はヤミ物資を流してくれるなら良い奴等、流してくれないならむかつく奴等、ぐらいの認識だったのかなと思います。生粋の商売人。その薫陶(?)を受けた私にも、そのドライさは幾ばくか受け継がれている気がします。政治や国家に熱くなるなんて子供じみてない?みたいな。
大学に入学後、政治学に関する外書購読の講義を受けていたことがあります。その際、教授が教材に選ばれたのが、第二次世界大戦敗戦時の日本の政治構造・経済構造に関する論文だったんですが(論文名失念、すいません)、未だによく覚えている描写があります。
ポツダム宣言受諾・無条件降伏の報を聞いた経済界のリーダー達(今で言う経団連のお偉方)が即日集まって、大いに敗戦を「祝う」。そこに湿っぽい空気は皆無。全員で乾杯し座が大いに賑わったという話。ようやく国家統制経済を脱して、自由に金もうけができるぞと言うわけです。
でも、出席したお偉方全員で “Cheers!” (乾杯!) って……。数日前、広島・長崎で無辜の民が大量殺戮されたばっかりなんですよと、戦争を知らぬ私でさえ言いたくなりますが、経済人・商売人の本質をよく描写しているなと感心したのも事実です。そしてその後は亡き祖父の言動が腑に落ちるようになりました。自分のやっていたビジネス・商売の感覚から極めてドライに戦争を見てたんだ……。
それは近視眼的なものの見方かもしれませんが、私も含めて庶民とはそういうものだろうと思います。それで全然構わない。私は祖父より幾分かはロマンティストなので、ドライにはなりきれませんが、やっぱり戦争なんてアホくさいことはやりたい奴同士だけで勝手にやっとけよ、俺の暮らしを邪魔すんな、とは思いますね。
昨日(2023.08.15)で敗戦後78年の月日が経ちましたが、またどこからかアホな話が持ち上がらないことを願っています。