「風樹之嘆」=「孝行のしたい時分に親はなし」
先日、漢文の授業をしていて久しぶりにこんなフレーズを見かけました。
「樹欲静而風不止」
ちょっと説明しておくと、置き字(読まない字)「而」の例文です。「置き字」というのは、日本人が古い中国語を読む際に便宜的に読んでいないだけの話でして、「意味を持たない字」というわけではありません。全く無意味な字ならそもそも書き記す必要がないはずですからね。
では、「而」にはどんな意味があるのか。色々な意味を持っているので全部を説明はできませんが、上記の文では「接続」を表しています。「而」=接続詞であるわけです。
ただこの接続詞「而」は、単純接続でも順接でも逆接でもありえるので、厳密に考えればなかなか解釈が難しいんですよね。こんな時は小学生にも教えている通り、接続詞の前と後を冷静に比べてみるしかありません。
「樹欲静」→樹静かならんと欲す→樹木は静止したがっている
「風不止」→風止まず→風は止まない
この二つの文章を結ぶなら、「逆接(しかし・けれど)」になるはず。つまり、
「樹木は静止したがっている」けれど「風は止まない」と考えることになります。
というわけで、書き下し文にすれば、「樹静かならんと欲すれ『ど』風止まず。」となります。ポイントは「而」が逆接の接続詞ということなので、別に「樹静かならんと欲す。而(しか)れども風止まず。」という風に「而」を置き字にせず読んでも構いません。
なんか漢文法ってアバウト過ぎるんじゃないかって?そうなんです!いい感想ですね!
おそらくですが、英文法や国文法をしっかり勉強してきた人ほど、漢文法ってアバウトに見えると思うんですよね。「こう読んでもいいけれど、こう読むのもOK」とか「この字は読まなくてもいいけれど、読んでもOK」とか。
しかし、私から言わせればそここそが面白味です。正直に言えば、漢文法はかなり言語的センスが問われるジャンルなんです。だからこそ、高校の教育課程に残り続け、共通テストをはじめとする大学入試に出され続けている(あくまでも私の考えですけれど……)。
もちろん、共通テストレベル・大学入試レベルなら深いセンスまでは問われません。少ない勉強量でかなりの高得点率を狙える「おいしい」科目ですので、大学受験生は捨てないで欲しいところ。
おっと、話が脱線しすぎました。「樹欲静而風不止」に話を戻します。
「樹欲静而風不止」(樹静かならんと欲すれど風止まず)には、実は続きのフレーズがあります(出典は『韓詩外伝』)。
「子欲養而親不待」(子養はんと欲すれど親待たず)
平たく言うとこういうことです。
樹木は静止したがっているが、風が止まないので、思い通り静止できない。同じく、子が親を養って孝行したいと思っても、親はそれを待たずに亡くなってしまうので、思い通り親孝行できない。
更にまとめると、「孝行のしたい時分に親はなし」ということですね。
実は上記の漢文フレーズを更に縮めた表現があります。「風樹之嘆(ふうじゅのたん)」という表現です。大辞泉の解説を引用します。
ふうじゅ‐の‐たん【風樹の嘆】
《「韓詩外伝」九から》静止していたいのに、風に吹かれて揺れ動かざるをえない樹木のように、子供が孝行をしたいと思うときには、すでに親が死んでいてどうすることもできないという嘆き。風樹の悲しみ。風木の嘆。風木の悲しみ。
「風樹之嘆」=「孝行のしたい時分に親はなし」覚えておいて下さいね。
読解力トレーニングにゴール無し
今日は時間があるので、もう少し話を深めていきましょう。
ありがたいことに小学生の読解指導をご希望くださる方が多く、日夜忙しくしているんですが、そんな日々の中、生徒さんや保護者様に勘違いがあることを時々(うっすらと)感じることがあります。
具体的には、「文章読解には何か公式めいたものがあって、それを習得すればどんな文章でもスイスイ読めるようになる」という考えなんですが、それはやっぱり勘違いだとお伝えせざるをえません。「宮田式読解でキミもラクラク100点だぁ〜!」なんて臆面もなく言える方が儲かると思うんですけれど(笑)、嘘をつくことになってしまいます。
言葉とは原理的に曖昧なもの。その曖昧な言葉をつかって頭の中の曖昧な考えを伝えてゆくのが、文章でありコミュニケーションです。そうした曖昧さに耐えながら、きっと伝わるはず・読み取れるはずという信念をもって、一生懸命相手の言うことに耳を傾ける。それこそが読解の本体だと思います。
私も何か公式を使って文章を読んだり教えたりしている訳ではありません。新しい文章に出会う度、真剣に相手の声に耳を傾けて、できるだけ深く理解しようと努めているだけです。
筆者・話者は誰なのか。文章は誰に向けて書かれているのか。文章はどんな文脈に置かれているのか。時代背景は。そんなことに目を配りながら、文章の本当に言わんとする事を考えているわけですね。
だから、読解力を鍛えることにゴールはないだろうとも思っています。そういう意味で私もまだまだ勉強中。
「孝行のしたい時分に親はなし」を色々な場において解釈してみよう
ここらへんで、先程の「風樹之嘆」=「孝行のしたい時分に親はなし」を例にして説明してみましょう。
まず、「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉を発したのが、親をなくした子だとしましょう。その時この言葉は、親を失った子の「孝養を尽くせなかった後悔」「己の至らなさに対する自責の念」を表すことになるはず。
逆に、「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉が、親から子に対して発せられたと考えてみて下さい。この場合、「お前が親孝行したいと思っても、もうその時にはワシは死んでおるんだぞ。だから今のうちに早く親孝行しなさい」という趣旨になるでしょうから、非常に厚かましい押し付けを表すことになってしまいます(いやな親だなあ)。
次に、親が生きている青年に対して、第三者が「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉を発したと考えてみましょう。この場合は、「残されている時間は少ないんだよ、だから早く親孝行しておあげなさい」という善行の勧め・アドバイス・忠告という風に読むのが良いでしょう(ウザい老害だと思われそうですが)。
では、ここで問題(唐突でスイマセン)。
親を失った青年に対して、第三者が「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉を発したとしたら、どう読解・解釈するべきでしょうか。
実はこれ、私の実体験から考えた問題です。
私は三十歳の時に父を失いました。肺癌が父の命を奪ったんですが、肺癌の原因はおそらく化学薬品・毒劇物を扱う父の仕事にあったのだろうと思います。言うまでもなく子供の頃の私の暮らしは父に支えられてきたので、父が(意識的ではなかったにせよ)命に代えて私を育ててくれたということになります。五十を超えた今も、父を思うと胸が痛みます。
「孝行のしたい時分に親はなし」この言葉は私にとって今も、「孝養を尽くせなかった後悔」「己の至らなさに対する自責の念」以外の何物でもありません。
父の逝去直後に時間を戻します。
父と仕事上で付き合いのあった方が、葬儀からしばらくして我が家を訪問して下さいました。葬儀の日時には仕事で都合がつけられなかったけれど、どうしても仏前に線香をあげさせて欲しい、そうおっしゃってのご訪問でした。
私はその方(Aさんとしておきます)のことは、父から話を聞いてお名前を知ってはいたものの、直接の面識がなく、その日が初めての面会でした。
ご来訪にお礼を述べた後、孝行も何もできないうちに父が逝ってしまったことを、心から後悔しているという話をしたところ、Aさんはにっこり微笑んでこうおっしゃいました。
「孝行のしたい時分に親はなし」だよ。
私はその時、今まで知らなかった・知ろうともしなかったこの言葉の意味を悟りました。
孝行をしたいと思った時にもう親はいないのが世の常なんだよ。子が親孝行をする前に親が逝くのは当たり前なんだよ。だからあなたは何にも自分を責める必要はないんだよ。お父さんに申し訳なさを感じなくていいんだよ。
もちろん、そこまで細かくはおっしゃいませんでしたが、その温顔に言葉の真意を読み取ることは難しいことではありませんでした。私は有り難さに涙が止まらず、うつむいたまま何度も何度もうなずくことしかできなかったことを今も思い出します。
「風樹之嘆」に関する個人的な思い出話で申し訳ないんですが、もう先程の問題の答えはお分かり頂けたかと思います。
親を失った青年に対して、第三者が「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉を発したとしたら。
それは「親孝行ができないのは世の常のこと・普遍的事実なのだから何も自分を責める必要はないという慰め」と考えるべきでしょうね。
昨日は亡父の誕生日。存命であれば81歳。亡くなった者の年を数えても詮無いことですが、生きていてくれたなら話したいことだらけです。あっちで会ったら怒濤のように話そう。お前ちょっと黙れと叱られそうですが(笑)。