三年後に地球が滅亡するとしたら – 伊坂幸太郎『終末のフール』

ベストセラー作家とはあまり縁のない生活を送っています。「売れているものはくだらない、売れていないものは素晴らしい」そんな中学生じみた論理でベストセラー作家を忌避しているわけではありません。何となくそうなっているだけで、時にはベストセラーに出会って大いに楽しむこともあります。

最近、心から楽しめたのは伊坂幸太郎の小説。『ガソリン生活』の話は以前も少し書いたことがあるんですが、あれ以来彼のことが気にかかっていて、先月は彼の小説を4〜5冊読みました。すごく面白い。いや、より正確には、話がすごく合う友人の話を聞いている感じがします。副代表も同じ小説を読みましたが、曰く「彼の作品には清潔感がある」と。

物に魂あり

その「清潔感」をもう少し分析すれば、こういうことではなかろうか。

世の中に生起する事実をフラットに見る姿勢、言い換えれば、とてつもなく美しい事柄も、胸が悪くなるほどの醜悪な事柄も、世界には同じように存在していることを受け入れる姿勢。それと同時に、健全な倫理を信じ自らそれを選びとる意志。

彼の作品は、どれを読んでもそんな雰囲気を感じます。文才は違うにしても、自分の持っているものとの共通性を感じさせられるんですよね。伊坂氏と私は年齢的にも近いですし、法学部卒という共通性も大きい気がします。

自分の話はまあいいとして(笑)、副代表と色々話したのは『終末のフール』という作品について。

8年後に巨大隕石が地球に衝突し地球が滅亡することが判明する。当初は自殺する人が跡を絶たず、殺人・強盗・放火などの犯罪が日常茶飯事となる。ただ、判明から5年経過し、地球滅亡まであと3年となった今、自死する人はすべて死に、犯罪に走った者は処刑・収監され、一応穏やかな日々が戻っている……というのが背景。

当たり前ですが、未来が失われているわけですから、労働に従事する人はほとんどいません。またお金の意味もほとんど失われています(お金を稼いだり貯めたりして何になるのか)。そして、学校という学校はすべて閉鎖されている。

そうした背景で起きる事柄は、必然的に「生きることの意味」と関連付けて考えなくてはならなくなるはずで、実際この小説の中で取り上げられる事柄もそういう描かれ方をします。

例えば、今まで子宝に恵まれなかったのに突如子を授かった夫婦。3年後に死ぬと分かっていても子は生まれてくるべきなのか。

例えば難病の子どもを抱える夫婦。子よりも親が先に世を去ることが人生最大の悩みであったけれど、子と同時に死ぬことができることとなり、地球滅亡に心から幸せを感じる。

一言で言えば、死がはっきりと具体化・可視化された場合、人はどう行動するのか。現実の私たちも、死がはっきりと具体化されていないだけで、いつか死ぬことに変わりないわけですから、本質的には何も変わりません。深い思いに導かれる素晴らしい作品でした。


もし仮に3年後に地球が滅亡するとしたら、私たちはどうするだろうか。副代表と話します。

「学校も全面閉鎖だし、やっぱり塾も閉じることになるだろうね。」

「うん、勉強することに学生も保護者さんも意味を見出せないだろうからね。」

「でもそう考えたら、学校とか塾って、もっと言えば勉強って、本当に『未来への投資』なんだって分かるよな。」

「ホントにね。勉強とか教育って『未来を信じる行為』だとよく分かるね。」

普段私たちがやっている仕事、小さなことの積み重ねですが、「未来志向」なんだなと気づきます。決して「過去の後始末」や「現在を取り繕う」営為ではない。そういう意味で幸せな仕事をさせてもらっていると思います。

地球滅亡まで後3年。何をやって過ごしましょうか。バイクや自動車はもうガソリンが手に入らないだろうし運転できないだろうな……。コンサートも誰もわざわざ開かないよな……。となると、やっぱり自分としては何かしらの勉強をするような気がします。一緒に勉強したい学生さんがいたら、週に1〜2回なら一緒にやって分からないところを見てあげよっか……って、今と同じような生活をしてしまうのかもしれませんね。