文楽の補助金問題に思う 文楽技芸員の方々に捧ぐ

現在の大阪市長は、タレント時代に「能や狂言が好きな人は変質者だ」と言っていたらしいんですが、その考えでいくと、能・狂言・文楽・歌舞伎などの古典芸能が大好きな私は、さしずめ「大の変質者」であります(笑)。

特に文楽については、近時の忙しさから頻度が落ちたものの、頻繁に劇場を訪れますし、一時期は文楽に関する古い芸談を読みあさっていたことがありまして(大阪市の図書館が所蔵しているものはほぼ読み尽くしたかと思います)、一方ならぬ思い入れがあります。そうそう、二十歳頃から「文楽友の会」にも所属しています。うむ、ちょっとミーハーでござる(笑)。

私、少ないながら納めている市民税も、(そんな制度はありませんが)「全額を文楽に回して下さい」と付箋を付けて納付してやろうかと思うぐらいの人間。今回の文楽にまつわる騒動については、色々と思うところがあります。政治的な部分は除き、少しだけ意見を述べさせてもらいたいと思います。


今回の騒動、つまり文楽への補助金カットに関する問題は、橋下氏が府知事だった頃に端を発しています。彼は府知事の頃から、文楽に対してあまり好意的ではなく、実際、大阪府から文楽協会への補助金は半減されています。

今回、大阪市から文楽協会への補助金が問題になっているわけですが、その額、年間で5200万円とのこと。もちろん個人的には補助を続けるべきだと思っていますが、このあたりは異論があっても仕方がないと思います。市民の公金である以上、色々な意見があってよい。

私がうなるほどの金を持っていれば、「そんなちっぽけなお金で騒ぎなさんな、私のポケットマネーで毎年支弁しときまひょ」で終わりなんですが、悲しいかな、そんな財力はありません。

大阪市長と文化政策・都市政策のブレーンが、文楽に関してやりとりしたメールは大阪市のウェブサイトに公開されていますから、私も一市民としてザッと目を通しました。これまであまり気にしてきませんでしたが、確かに、文楽を全体として見たとき、責任の所在がかなり不明確になっているという部分は理解できます。
(ちなみに橋爪顧問は高校・大学の先輩で、著書も何冊か拝読しています。信頼できる学者のお一人だと思っています。)

大阪市市政 メールでの検討状況

そして、大阪市政の担当者が、こうした金銭的に不明確な部分を問いただし、文楽を運営する協会側にも襟を正してもらうことについては、一文楽ファンとしても特に問題は感じません。


ただ、私が強烈に違和感を覚えるのは、一定の影響力を持つ市長が、文楽の文化としての側面、古典演劇としての側面にくちばしを挟んでくることです。これは政治家の仕事ではありません。

文化に対する尊敬の念をもった意見ならともかく、小学生でも恥ずかしくて言えないような稚拙極まりない発言を繰り返すのを聞いていると、大阪市民であることに軽い悲しみすら覚えます。いや、私などはどうでも構いません。思うのは、文楽技芸員の方々の無念です。

以前もこのブログで書いたことがありますが、文楽技芸員への経済的な見返りは少ないと聞いています。文楽は、スターシステムをとる歌舞伎のような派手な芸能ではなく、実力一本の地味な芸能ですから……。そうした状況下で、日々芸を磨き続けることが、どれほど尊いことか。

2012年7月26日、市長は近松門左衛門の『曽根崎心中』を観たそうなんですが、報道によると、観劇後次のような発言をしています。

ラストシーンがあっさりしていて物足りない。演出不足だ。台本が古すぎる。

エンディングにハリウッド映画のような大爆発シーンを持ってこいとでも?最新鋭の演出で観客の度肝を抜けとでも?台本が古いという点に至っては、噴飯ものです。料亭に行って「お品書きにハンバーガーやフライドポテトがないのはけしからん」とでも言うんでしょうか。

何だか、コメントを書いていても馬鹿らしくなってきます。浄瑠璃風に言えば、「エエやかましい、まだ頬桁叩くか」と。


文化には色々な種類がありますが、一定の勉強をしないと楽しめない類の文化もあります。クラシック音楽然り、オペラ然り、古典文学然り。インスタントな文化に慣れた人には、その勉強が面倒なのかもしれませんが、優れた文化ほど、深く学ぶことによってその楽しみが増し、その神髄に近づいてゆけるという奥行きを持っています。

そういう勉強を怠って文楽を観劇しても、意味が分からないのは当然です。上述の『曽根崎心中』のラストシーンは、一言で言えば、徳兵衛とお初の心中シーン。現世で思いを遂げられぬ若い女が男に身を委ね刺し殺される、男も自ら死ぬ、という残酷な情景が描かれます。そこには、自ずと男女の性的な愛も垣間見えて……(塾ブログなのでこのあたりで自粛)。近松の詞章を勉強すれば、その奥行きはさらに深まるわけで、私にとっては胸詰まる思いのする名シーンの一つです。

好みもありますから、文楽がお気に召さない人もいるでしょう。勉強をしてまで見たくないよという人もいるでしょう。それは構いません。しかし、いやしくも市長であるならば、先人の築きあげた文化に対する敬意は払って欲しい、文楽の価値を貶めるような言動は謹んで欲しい。分からないのは仕方がないにしても、分からないことについてはせめて黙っていてくれないか。

今回の発言を文楽への侮辱・技芸員への侮辱だと思った文楽ファンは少なくないと思います。


既にお亡くなりですが、吉田玉男師の遣う人形には、言葉では表せぬ品格がありました。どんな人形を遣われるときも、その品性が崩れたところを見たことがありません。死を目前にした武士も、義理と愛に身を引き裂かれる町人も、みな誇り高い「人間」でした。もう泣きたくなるほどに。「人形」であるのに、いや、「人形」であるからこそ、夾雑物をいれずに人間の気高い誇りを表しうるのでしょう。吉田玉男師の舞台を見られたことは、何時までも、私の幸せとして胸の奥深くに残ります。

故鶴沢燕三師の三味線は、情愛を柔らかに描き、勇気を決別を激しく描いていました。劇場の虚空を見つめ奏でられる三味線に、私は何度背筋をゾクッとさせられたか分かりません。

こうした芸を知るものにとって、文楽は不滅だとしか思えません。

過去の文楽には難しい局面が何度もあったと聞いています。三和会と因会に分かれていた辛い時代。綺羅星の如き名人が揃っているにもかかわらずお客がさっぱり集まらなかった時代……。でも、文楽は消滅しませんでした。それだけの価値があり、それだけの生命力を持っている。今よりもっと不遇の時代を乗り越えた文楽、人間の真髄を描く文楽が消滅するなんて事は決してあり得ないと思うのです。

文楽を知りもせず、知ろうともしない外野の意見に迎合する必要も全くないと思います。報道ではあまり取り上げられませんが、義太夫詞章の字幕表示導入、イヤホンによる解説導入、子ども向きの演目上演、鑑賞教室の開催といった、敷居を低めようとする文楽側の真摯な努力はもっと評価されて良いはずです。


今回、文楽が政治的な混迷に巻き込まれてしまったことを、一ファンとしてとても残念に思いますが、技芸員の方々や文楽を裏で支える方々には、文楽ファンが変わらずに応援し続けていることを忘れずにいていただければと思います。

最後に、一人の文楽愛好者として叫ばせて下さい。

文楽は死なず。芸は滅びず。