西江雅之「新『ことば』の課外授業」から

最近読んだ本で、少し私の仕事に関係のありそうな話題をご紹介しましょう。

西江雅之「新『ことば』の課外授業」という本なんですが、さすがに著名な言語学者による書だけあって、難しい話題(のヒント)が平易に書かれています。個人的な趣味で楽しく読んではいるんですが、こういう本って、仕事に役立つ事が多いんですよね。

西江雅之
「新『ことば』の課外授業」

新「ことば」の課外授業

西江雅之さんはとりわけスワヒリ語に詳しい学者さん。学校の教科書にもその文章が採録されていたりしますので、比較的名の知れた言語学者なのではないかと思います。

思うに、日本語だけを勉強していても日本語のことはよくわかりません。他言語を介して初めて分かる事もある。私は日本語と英語以外の言語をあまり知りませんが(大学で学んだドイツ語はほとんど忘却の彼方へ(笑))、今まで、英語を通じて日本語に関する気付きを得るということは稀なことではありませんでした。

いまのところ、学校の教育課程では「国語」と「英語」は別の2科目に分けられていますが、究極的にはこの2科目、同じ事をやっているように思うんですよね。「言葉・言語」という意味で。

だから、国語ができる人は英語もまず間違いなくできます。「いや、国語は得意だけど英語は苦手なんだよな」という人は、根本的な国語力がまだ乏しいか、英語にまだ慣れていないかのいずれかだと思います。逆に、国語力がないと英語はある程度のところで学力の向上が止まります。これも間違いありません。この辺りの話は長くなりそうなので、また別の記事にしましょうか。

閑話休題。私にとって未知の言語を数多く知る学者さんの話は、とてもためになります。言語に関するヒントを色々与えてくれる。面白かった部分をいくつかご紹介しましょう。以下の引用部分はいずれも、西江雅之「新『ことば』の課外授業」から。

一つの言葉が正反対の意味を持つ場合がある

日本語とは非常に異なった言語を見てみると、時々わかりにくい意味を持った単語に行き合うことがあります。これは、何も珍しい言語に限ってというのではなくて、世界の言語に共通して見られることなのです。

たとえば、これはインドの言語に多いのですが、辞書を見ると「きのう」と「明日」が同じ単語なんですね。「あれ、おかしいな。まるで反対の意味なのに」と思うし、「これじゃ過去か未来かわからないじゃないか」とも思うかもしれませんが、これはやはり思い違いで、正確に言えばその意味は「今日とは一日違いの日」なんですね。そこで、その単語が入っている文章が過去形だったら「きのう」に決まっているし、文章が未来形だったら「明日」に決まっているのです。

というように、「好き」と「嫌い」といった一見まるで逆の意味が、同じ一つの単語である場合もあり得ます。「好き」と「嫌い」が同じというのは、実際のところは、「気になる」という意味なんですね。あとは文章の中で同じ単語を使っても、「だから欲しい」と言ったら「好き」という意味になるし、「だからやだなー」と言ったら「嫌い」という意味になるのであって、理解上ではまったく問題ないわけですよ。

外国語の読解力と大きな関係がある話ですよね。読解力・文法力がなければ、上記のような語の意味は的確に捉えられない。

分類にはいろいろある

以前わたしは大学の学生に、「クジラとイワシとウシ、この三つのものを二つに分類しなさい」という試験問題を出したことがあります。三つを二つに分けるので、要するに二対一になるわけですね。

名門小学校の入学試験では、受験生の太郎君がイワシとクジラをいっしょにして、ウシだけを別にして分けたら、試験に落ちます。「あなたは間違っていますよ。クジラは本当は哺乳類です」と教えられるわけです。実は問題の出し方が良くないんですね。「系統発生学的に」と言っても、幼稚園の子ではわからないでしょうが(笑)、少なくとも、「これらの動物を何々という科学的な根拠に基づいて分類しなさい」と、子どもにもわかるやさしいことばで問題を説明してあげれば、そういう答えにもなるでしょう。しかし、ひと口に「科学的な根拠」と言っても、生態的に言えば、クジラとイワシは水中、ウシは陸上に住んでいるんですよ。形態的に言っても、クジラとイワシは同じで、ウシが別になります。正しい答えは、基準の置き方一つで、何通りも出てきます。

ですから本当は、なぜ「ウシとクジラはいっしょで、イワシだけが違う」という答えしか今の世の中では認められないのか、そのことを問題にした方がいいのです。わたしなら、「こういう根拠で分けたらこうなる、という例を五つ挙げよ」という問題にします。その方がよっぽど科学の勉強になるはずですからね。

つまり、「分ける」というときには必ず、何らかの基準があるのです。現在の学校は一つの基準しか認めず、それ以外のものは間違いだというレッテルを貼ってしまうのです。

(中略)

科学分類と民間分類という二種類の分類がある。このことは、現在、世界中どこに行っても共通しています。重要なことは、科学分類は世界共通でも、民間分類は様々だということです。

(中略)

ただ、これは理科がいけないという話ではなくて、理科以外にも、生き生きとした日常のことばの世界があると気づかせることも大切なんだということです。

本当に心から同意します。小学生に理科を教えていると「いや〜これはこれで正解だな」と思う解答が結構多いんですよね。そんな場合、当塾では「それは間違いだ」となで切りにせず、「こういう観点からするとこの解答もおかしくないよ」と一旦肯定してから、「ただ学校の教科書はこういう観点で見ていないので、テストではこう書いておこうね」と指導しています。うむむ、弱腰ですね。塾なので仕方がない(笑)。

双数形や四人称をご存知ですか?

世界の様々な言語にはそれぞれの「クセ」があります。それをうまく押さえておくことがその言語の習得や教育に必要だろうと思っています。

現在、私が関係しているのは日本語と英語だけですが、小学生の英語を指導していると、かなり国語力のある子でも、「単数形」「複数形」がごっちゃになってしまうケースがあります。無理もありません。日本語の名詞はそんなことを気にするようには出来ていませんからね。そういったクセのある部分を的確に指導することが大切だと感じます。

ちょっと面白い「クセ」をご紹介しましょう。

古典アラビア語には、単数形・双数形(二つを表す形)・三つ以上の複数形という単語の形がある。

ブッシュマン語には、単数形・双数形(二つを表す形)・三つの複数形・四つ以上の複数形という単語の形がある。

これ、日本人からすると狂いそうですよね。なんでそんなに物の数にこだわるかな!(笑) まあ、でもそれが各言語の「クセ」なんですね。

アメリカ先住民の言語の中には「四人称」の概念がある。

ここに関しては引用してみましょう。

たとえば、Aさんには太郎君、次郎君という二人の友達がいるとします。ある日、Aさんが会社に遅れてやってきて、同僚に「どうしたの?」と聞かれる。Aさんは、「駅で友達の太郎君に会ってしまってね」と言います。それを受けてその同僚が「太郎君は元気?」と質問するときには、英語なら当然、「he (太郎)は元気か?」となるはずですね。そのうち今度その同僚が、次郎君に本を貸しているのを思い出して、「次郎君はどうしてる?」と聞いたら、英語のような言語の場合、これに対してもやっぱりAさんは、「he (次郎)は今、田舎に帰ってる」と答えるでしょう。

こういう話を続けていったら、その”he”というのが誰なのか、太郎君なのか次郎君なのかがだんだんわからなくなってくることもあります。

ところが、たとえばある言語では、「彼」(三人称単数)を”hi”と言い、四人称を”ki”と言うとしたら、「kiは田舎に帰ってる」と言えば、これは絶対に次郎君のことですよね。「なぜ帰ってるの?」という質問に、「kiはhiz車で事故にあってケガをしたから」と答えれば、次郎君は太郎君の車で怪我をしたことになるし、「kiはkiz車でケガをしたから」と言えば、次郎君は自分の車で怪我をしたことになるわけです。

少し分かりにくいかもしれませんが、英語で言う三人称を、時間的な観点もしくは話者の心理的な観点から、さらに細かく分類していくという言葉の使い方です。

日本語や英語だと「太郎君」「次郎君」と固有名詞を使って明示することになると思いますが、四人称を使うというのもなかなかいいアイデアですよね。

強いて日本語で作ってみると「前彼」「後彼」みたいな感じでしょうか?いや、全然違う意味に取られるか(笑)。

他にも、日本語はあいまいな言語ではないという話(猛烈に賛同します)なんかも紹介したいんですが、時間がないのでまた機会があれば。

最後にこんな話を引用させてもらいましょう。

音の区切り方にも言語のクセが出る

なお最後に、言語の拍の感じ方については思い出が一つありますので、それを話しておきましょう。それは、ある時に、三種のアルファベットを幅の広いテープの輪に連続して書きつけたものをアフリカで見せた時のことです。

(ブログ作成者注:図には「… O N D O N D O N D O N D O N D O N …」と記された輪が示されている)

その輪には何が書いてあり、いくつの拍になっているかをたずねました。日本人には二種類の人がいることはすぐわかります。その一例は「ド・ン・ド・ン・ド・ン」という人びと、もう一例は「ドン・ドン・ドン」という人びと。英語話者ならば、言うまでもなく一種類「ドン・ドン・ドン」だけでしょう。ところが、東アフリカではみんなそろって別の一種「ンド・ンド・ンド 」となったのです。

これは各々の言語の特徴を考えてみれば当然のことですが、当時のわたしには非常に新鮮な驚きを与えてくれたものでした。

なにか締めくくりの悪い話が続きましたが、このあたりでネジを締めなおすかわりに、アフリカ風にしっかりと釘でも打って、話を打ち止めにすることにしましょう。「釘をガンガン打つ」というのは、スワヒリ語では “-piga msumari NGA NGA NGA”と言うのです。

これはアフリカ音楽を聴いているとムードとして分かります。なんとなく「ン」で始まる言葉が多い気がするんですよね。チャドの首都が「ンジャメナ」だというのは地理選択者には有名な話ですが(地名しりとりで超有効!)、釘を「ンガンガ」打つというのは初耳でした。

本当に言葉って面白い。