語彙力だけでは読解力は上がらない – 入試国語で問われているのは「意味論」ではなく「語用論」

「語彙力を上げれば必ず読解力が向上する」なんていうのは大いなる誤解だ、という話。

時々いらっしゃるんですよね。少し難しめの語句や慣用句を増やしてゆけば、読解力は絶対に向上するはずだとお考えの方が。でも、ことはそんなに簡単ではありません(特に小学生においては)。

もちろん、語彙力は重要なんですよ。ボキャブラリーが貧弱だと表面的な読解もおぼつかないですからね。ただ、語彙力は読解の本質的な部分ではありません。

特に入試国語を念頭に置いた場合、そこで主に問われているのは、「意味論」ではなく「語用論」なんだということを言いたいわけなんですが、少し掘り下げてみましょう。


最近こんな本を読みました。言語学といっても、素人向きの本なので分かりやすい事この上ありません。

黒田龍之介 / はじめての言語学 (講談社現代新書)

はじめての言語学 (講談社現代新書)

その中に「意味論・語用論」の解説があるんですが、とても分かりやすく説明されているので、少し引用してみますね。以下引用部分はすべて『黒田龍之介 / はじめての言語学 (講談社現代新書)』から。

言語学では、語彙的・辞書的な意味を研究する分野を意味論という。意味論は言語の知識にもとづいた意味に注目している。それに対し、文脈的な意味を研究する分野を語用論という。語用論は言語の知識だけではなく、社会生活や常識なども考慮に入れて考えるところが意味論と違うところである。

まだ少し難しいかもしれません。平たく言うとこういうことです。

「意味論」的に文章を読む=「言葉の辞書的な意味だけで文章を捉える」

「語用論」的に文章を読む=「言葉の辞書的な意味だけでなく、社会生活的な常識もふまえて文章を捉える」

大変分かりやすい具体例も挙げられているので、引用します。

ネコはクリームを飲むものだよ。

この文は一つ一つの語に分けて意味を解釈することができる。
国語辞典を参考に次のような解釈を考えてみた。

家でペットとして飼われる爪が鋭くてネズミを捕る動物は、液体状の乳脂肪を体内に取り込むものである。

「ネコ」「クリーム」「飲む」という単語を辞書でひき、その定義をつなぎ合わせれば、確かにこうした文章になりますね。

しかし、お分かりの通り、こんな説明が欲しいわけではありません。というか、小学生でも「ネコ」「クリーム」「飲む」という単語の意味を知らないはずがありません。厳密に定義して言語化できるかは別として、「ネコ」「クリーム」「飲む」の意味が分からないと悩む小学生はまずいない。

入試で問われているのは、「当該文章を社会生活や常識という観点から見た時、どのような意味を伝えたいのか理解できるか・その理解を表現できるか」ということです(それは入試だけではなく日常生活でも重要なことですが)。

そこでこの文に文脈を与え、対話文にしてみる。

[状況]夫、妻、飼いネコのアンドレイが台所にいます。次の会話は台所での会話です。

妻 「あのお皿に入っていたクリームはどうしたの?」
夫 「ネコはクリームを飲むものだよ」

ここで夫のセリフはさきほどの例文とまったく同じである。しかしこの文は語彙的に解釈したときと、文脈的に解釈したときでは違ってくる。

「ネコはクリームを飲むものだよ」

語彙的な解釈‐家でペットとして飼われる爪が鋭くてネズミを捕る動物は、液体状の乳脂肪を体内に取り込むものである

文脈的な解釈‐アンドレイはきっとクリームを飲んじゃったんだろう

もちろん、入試問題作成者が期待しているのは「文脈的な解釈=語用論的な解釈」です。

大人の観点からするとそれは当たり前のことであって、わざわざ言われるまでもないレベルの話なんですが、こと小学生においては、当たり前の話ではありません。加えて、社会生活の経験が乏しいですし、社会一般の常識もまだ完全に身に付いているとは言えません。そこにこそ問題点がある。

そりゃ、社会生活や常識をもとに「読解」せよと言われているのに、その社会生活や常識が乏しければ、「読解」のしようもありませんよね。

だから、入試で必要とされる読解力、そして社会で必要とされる読解力(コミュニケ−ション能力の一部をなすと思う)を身に付けたかったら、社会生活・常識を軽視すべきではありません。大手受験指導塾の目指す国語力と、難関中学が目指す国語力は、そのあたりの観点において大きな差があると常々思っています。

もちろん、当塾ではちゃんとそうした観点・反省をもって指導しています(少なくともそのつもりでやっています)。


生徒の保護者様からしばしば伺う話があります。

「どうしてウチの子は、こんな当たり前の文章を妙に読み取っちゃうんでしょうか?」

「どうしてウチの子は、こんな常識的な話が理解できないんでしょうか?」

大人からするとそう見えても無理はありません。これについても関連した記述があります。

実際に文を解釈するとき、人は常に語用論的な意味を考えている。それはもう無意識といってもいいくらいに慣れきっているので、もしかしたら気づいていないかもしれない。

これなんです。大人にしたら当たり前すぎて意識すらしていないことなんですが、子どもからすると「語用論的な意味」を考えることに慣れていなかったり、そもそもそのベースとなる社会生活の経験が乏しかったりするわけです。

とすれば、その辺りを矯正してあげるのが指導として必要なんじゃないかなと私などは思うわけです。また、「社会生活・常識」が、授業だけで身に付くとも思えません。家庭や学校における日常生活も、というか、家庭や学校における日常生活こそが、非常に大切なはず。

最後にとてもしゃれた具体例を引用しておきましょう。

たとえば「寒いねえ」というのは、意味論的に解釈すれば「温度が低い」ということである。しかし実際に言語を使うときはどうだろう。場合によっては、開けっ放しのドアを閉めてくれといっているのかもしれない。自分でやるから閉めてもいいかなと聞いていることもありうる。もっと親しいと、今日は一杯やって行かないかという誘いの表現にもなりうる。さらに恋人同士だったら……自分で考えてください。

塾ブログなのであんまり深入りは出来ませんね。まさに「自分で考えてください」(笑)。