車から見る景色とバイクに乗って感じる景色と

しかし、最近のネット動画の画質は上がりましたね。YouTubeにも、いわゆる4K動画が多くアップロードされていますが、そうした動画はフルモニタ状態に拡大してみても、ディテールまでくっきりと見ることができます。

先程見つけたのが下の4K動画。山陰の美しさを余すところなく伝えてくれる動画です。ドローンも駆使して撮影していると思われるんですが、フルモニタ状態にすると大迫力。私が今利用しているのは27インチのモニタなんですが、そろそろ40インチ以上のモニタを導入してもいいかなという気持ちにさせられます。

San’in, Japan 4K (Ultra HD) – 山陰


(字幕をオンにすると撮影場所が表示されます)

こういう景色を見せられると、また山陰に出かけたくなります。この映像の感覚、バイクに乗って風景を見る感覚にかなり近いんですよね。どの山も海も本当に美しい。もちろん自動車でも楽しいでしょうが、バイクだとその喜びは数十倍。こればっかりは乗ってみないとわからないでしょうが、風を切り、草の匂いや磯の香りに包まれ、自然の色彩に目を喜ばせるという感覚は、自動車とは全く異なります。


落語家の柳家小三治さんはバイク乗りですが(今は降りられている模様、人間国宝ともなれば仕方がないかと思います)、その著書『バ・イ・ク』の中でこんなことを書いていらっしゃいます。

バイクに乗るとね、まず景色が大きくなりますよね。自分を取り囲んでいるのが全部景色だというかなあ、そういう感じがするんですよね。車に乗ってるときは、車の中から景色が見えるっていうかな、何かを眺めている感じなんです。映画とか、絵とか、そういう作品を見ているような。ところが、オートバイはシネラマなんてもんじゃないのね。もう足元から景色が続くわけです。
(中略)
バイクの場合は、のぞくというんじゃなくて、自分が風景の中に飲み込まれているというか、風景の中の一粒でしかない、そういう感じがするわけですね。車の窓から見ている風景は、他人行儀というか……。

本当にそうなんですよね。風景と一体化しているという意味で、禅味すら感じることがあるぐらい。自然の中に、自然と全く同等のもの・自然の一部としての自分がいる。

自動車から見ている菜の花というのは、ただ黄色いものがたくさん咲いてらあ、という感じ。確かにきれいはきれいなんだけど、バイクに乗ってるときの菜の花というのは、菜の花と自分の間に距離を感じない。車にのっていると菜の花というのは花で、私は人間だっていう距離感を感じる。

だけど、バイクに乗ってるときの菜の花と自分の距離感というのはね、ただここから菜の花まで、二メートルとか、三メートルあるという距離感だけで、私は人間で、向こうは植物だっていう種類の違いを感じない。菜の花も自分も、同じこの世界の、景色の、原野の中の一つでしかない。生まれれば生き、枯れれば死ぬという、同じ原理の生き物でしかないという共通性を感じるんだね。

いや、さすが落語家、「言葉」を生業とする人だと感心します。人間は所詮ただの生き物にすぎない。文明社会の中で見失いがちなこの事柄を、文明の利器たるバイクを通じて感じ、表現する。その感受性と表現力において、小三治さんは一流の表現者だと確信します。

東京から高座のある諏訪まで、一人バイクに乗って出かけるこの章は、こんな言葉で締めくくられています。

人間になって、あんな素直に喜べたっていうことは、初めてだったかもしれない。

素直に喜ぶことができる。人間にとって最大の幸せなんじゃないでしょうか。


うだうだとこんなことを書いていると、鳥取砂丘から丹後半島に抜ける海岸沿いの道を走りたくなってきました。寂れた漁村→小さな峠道→寂れた漁村→小さな峠道→寂れた漁村→小さな峠道→(以下ループ)みたいな道なんですが、わけも無く楽しいんですよね。しばらくは暇がありませんが……。