早くも11月半ばですね。この時期、午前3時以前に休める日はほぼ皆無です。例年忙しいんですが、今年はもう限界レベルだと思います(笑)。今日もブログを書いている場合ではないんですが、そういう時に限ってブログを書いているんですよね。現実逃避。
私にとって、読書は趣味というより日常なんですが、時々、感銘としか言いようのない感情を持つことがあります。新しい知識を得るとか、仕事に役立つとかいった書籍について、そういう感銘を覚えることはほとんどありません。なるほどと納得するだけ(それはそれで楽しく貴重なことだけれど)。
思うに、感銘する時って、誰かの「魂」に出会う時なんじゃなかろうか。筆者本人の魂。筆者が描く誰かの魂。その魂に触れえたと感じるとき、心中の湖に美しい波紋が広がってゆく。
最近だと、夭折した棋士の村山聖を描いた『聖の青春』。こういう魂がかつてこの世に在った。不器用ではあるけれど、恐ろしいまでに真っ直ぐな魂が、かつてこの大阪という地に在った。彼のことを考えると「魂」という言葉以外が思い浮かばない。
昨日読んでいた内藤湖南の『先哲の学問』。江戸期の学者の学問を説いた講演集なんですが、ほとんどの学者は著名な人々。山﨑闇斎・新井白石・富永仲基・慈雲尊者・山片蟠桃などなど。その中に、私の全く知らない学者が一人。市橋下総守(市橋長昭)です。
この市橋下総守の学問に対する姿勢が、何とも爽やかなんです。四十二歳で亡くなるまで、小藩の藩主という立場に在りつつも学問に打ち込む。世の中の為になると考えれば、愛着のある貴重な書籍を惜しげもなく湯島聖堂に寄贈する。学問好きな大名達との交流は淡くも涼やかで。ああ、かつてこんな美しい魂が近江国に在ったんだな。
美しい魂に触れると、何か嬉しく心強い気がしてきます。
読書の醍醐味はそこにあるのかもしれません。